そんな下種を見る目で俺を見るな。
あんたのほうがよっぽどケダモノだろうが。
李が出て行って、仁は困ったように毛布を手繰り寄せた。ぐるぐると丸めて、胸元へ抱える。
窓からはさんさんと太陽が注ぎ込んでいて、ソファで眠る一八の顔へまぶしく降り注いでいた。
眠っている一八の眉間には刺青のように普段消える事の無い皺が無く、安らかそのもの。全ての苦しみから遠いところで眠っている。
が、陽射しが時折きらめくたびに薄い瞼がふるえて、うるさそうに口元がむっと尖った。
「………」
その一部始終を、毛布を抱えてつぶさに見下ろしていた仁は困る。
(眩しそうだな)
(いい気味だ)
(カーテン閉めてあげたらどうだろう)
(閉めてから寝ないのが浅はかだ)
(毛布かけてあげたらよかったかな)
(李さんが勝手に押し付けただけだ)
基本的に良い人で出来ている仁と、父親だなんて認めないこんな奴な仁との狭間で波が立つ。
しかし結局、
(十分で起きるんだろ。あと三分ぐらいで。それならそれぐらい、我慢しろ)
半ばこんなことに悩む自分が腹立たしく、毛布の塊を投げ捨てた。しかし妥協案として、レースのカーテンを引く。
顔に降りかかる陽射しがレースに透けて切っ先をゆるめたのを肌で感じたのか、
ふ、
と一八の顔が更に安らぐ。今にもあくびに大口を開けて、もう食べられないなどとベタな寝言を言いそうなほどに。
仁の心にも、
(良かった)
(余計な事をした)
ない交ぜになった感情が芽吹いた。
ぐるぐると混ざり合って面倒な事になる。
けれどあと一分かそこらのことだと思えば、それも仁は封じ込めればよいと思った。
が。
予想に反して、およそ四時間経っても一八は目覚めなかった。
「………」
その間、
寝返りを打ってみたり、
ちいさなうめき声をもらしてみたり、
鼻をぴくりとさせてみたり、
寝返りを打ってみたり、
唇を尖らせてみたり、
寝返りを打ってみたり、
腹のあたりをぱりぽりかいてみたり、
意味の無いむぐむぐとした言葉をつぶやいてみたり、
寝返りを打ってみたり、
「起きろ」
いい加減に。仁の額に青筋が浮かんだ。既に西日だ。オレンジ色の陽射しからあたたかさがうせ始めている。
思った以上に仁の声は低かった。
「起きろ」
一八の眠るソファのすぐ側に膝をついて、顔を覗き込んだ。
いまだ安らか。毛布をかけてもいないのに、なんとなくあたたかそうに肌が赤みを帯びている。
「おい、何時だと思ってる」
面と向かってだと、もう少しやわらかい口調になるだろう。
が、なんといっても既に四時間も待っている。別に誰も仁へ待てと言ってはいないが、そこは仁、気づいていない。
肩へ手をかけて揺さぶった。
「………」
もしかしたら、自分を怒らせるために寝たフリでもしているのではないか。
不意に仁の頭へそんな思いが点った。
(やりかねない)
(俺を怒らせて、にやにやしているような人だから)
「おい、」
更に強く強く揺さぶっていると、不意にぜんまいがキレたように一八が動かなくなった。
光にぴくりぴくりと震える瞼も、
尖る唇も、
寝返りを打つのも、
安らいでいる眉も、
全てがとまって、ぐったりとなった。
にわかに仁が慌て出す。息遣いまで急にしんみりと静まっている。
(え)
(どうして)
(どうしよう)
(死ね)
(死んだ?)
馬鹿馬鹿しいと思いながら、仁は一八の胸へ耳を当てた。
ことんことんと思ったよりとても大人しい音が聞こえてくる。
思った通り見た通りに胸にぐっと厚みがあって、添えた仁の手のひらへ弾む。
(…なんだよ)
仁は腹立たしい気持ちで、一八の胸を軽く突いた。
かりり、と一八の胸を仁の指が掻く。かすかに胸の上下が乱れた。
「あ」
目の前の白いシャツ、狙ったわけでもないのに仁が今しがた引っかいたのはちょうど乳首のあたり。
かすかな刺激にシャツの布地を押し上げて乳首がぷつんと怒っている。
男の乳首など見たいものではない。
仁は嫌な顔をした。猫が臭いものを嗅いだときのような。
しかし、出したら片付けるものだと母に教わって育った仁は反射的に手を伸ばして、
ぐっ、
押し込むように乳首をシャツの上から指先で押さえる。
いち、
に、
さん、
数えて仁は無感動に手を離した。任務完了の顔をしていた。
しかし。
憎まれっ子世にはばかる。
出る杭を叩くともっと出る。
火に油を注ぐ。
この三つの言葉が次の瞬間仁の脳裏に浮かんでいた。つまりは乳首はさらにぷっくりと大きくなって、今ではシャツの皺だとは言い張れないぐらいになってし
まっている。
(しまった)
しかし、まだまだどうとでもなる。
仁は更に人差し指をその頂点に触れさせると、
ぐり、
ぐり、
ぐ、
最後のぐ、で今度は五秒待った。手を離す。
こうかは いまいちの ようだ
あせりがじわりと沸いてきて、仁は更に指へと力を込める。
ぐりぐり。
ぐりぐり。
(押して駄目なら!)
引いてみた。つまんで引いてみた。
こうかは まったくない みたいだ …
(無理やりにでも!)
爪を立ててやろうか。カリカリと。それとも摘み上げたと見せかけてからの捻りこみ…
赤黒いオーラのようなものを、めろりめろりと肌からとろかす。
「貴様、何をしている」
冷え冷えとした、不機嫌のクリスタルを集めたような声が降って沸いたのはいきなりだった。ただし、仁にとってだけ。
紫に空気がよどんでいく。悪魔を揺り起こした、地獄の蓋が開いた。
仁ははっとなって、
「乳首が」
反射的にそう答えてしまった。答えてから、
(これじゃ、変人じゃないか)
しまったと思わないでもなかったが、口にしてしまったものは取り返しがつかない。
変人では足りない、変態と呼ばれてもおかしくはない。
ここは甘んじて変な人のそしりを受けるしかないと、正座をして一八の言葉を待った。
一八はゆったりとソファへ身体を起こした。寝起きであれども、三島一八の視線の切っ先は痛い。
視線が自分の胸へ動き(主に乳首)、仁の後頭部へ、それから窓へやわらかくかかっているレースのカーテン(李持
参)、それから、
仁の抱え込んでいる毛布へ。
毛布。
それから、時計。
「……貴様、俺が風邪などひくと思ったか」
苦りきった声、渋い顔。
「え?」
「…くだらん」
一八はそう呟いた。言ったのでも、吐き捨てたのでもなく、呟いた。
「出かける」
言い捨てて、一八は西日の差し込む真っ赤な部屋を後にした。
残された仁はただ、毛布を抱えたまま困り果て続ける。
「やはり、あれは俺の脅威にはなれんな」
一八は上機嫌に李へと告げた。手にした酒は既に二桁を軽く回って、四捨五入をすれば二十近い。
薄く酔朱が頬へとさしているが、呂律も乱れたところはまるでない。酒と煙草と欲望のにおいが不健康に充満した薄暗い店内でも、一八は正気を保ち続けてい
る。
隣に座った李も正気を保ち続けている。白い頬にひとすじ差し込んだ朱もごくごく薄い。干した酒の量は一八よりもだいぶ下回ったが、その分強い酒を口にして
いる。まるで乱れたところもない。遠巻きに李の美貌に目をつけていた人間達(性別不問)は、あれでは酔い潰せぬと、そして隣に見るからに強そうな男がある
のとに早ばやと諦めていた。
「脅威?デビル因子を持っているんじゃなかったのか」
「…持っていてもだ」
自信にあふれた物言いは一八の常だが、李は一八の言葉に何か確信を見出す。
細い顎をしゃくって促すと、ぐいと酒を干してから、
「母に似たんだろう。やさしさなどというくだらんものにしがみついている」
ふふふと剣呑な笑い声をくぐもらせた。睫の重たい瞼を伏せて、李は探るように顎を引く。
「………」
「乳の恋しい、甘ったれた子供だ、あれは」
ははは、隣のテーブルの人間が視線を向けるほどの、大きな笑い声を一八は上げた。脚を投げ出し、低い声は響く。
愉快そうに、何か思い出し笑いに一八はくっくと肩を震わす。
「…詳しく聞かせてもらおうか」
李はこわい笑みを口元に浮かべた。こわいほどにきれいな笑みだった。