「おい、十分寝るぞ」

俺の返事を、かつてこの人は待ったためしがあっただろうか。
とにかく俺が振り向いた時には寝ていた。
ソファに丸くなって寝ていた。俺はそれをただ見ているだけ。
わざわざ眠るのにどうして宣言が必要なんだろう。


俺は手にしていた新聞を置いた。それからここで寝ている三島一八(まだ父さんとは呼べない)と、それから三島平八と、
俺のあんまり好きじゃない名前が並んでいる。そのうちここに俺の名前が載るんだろうか。世界の敵だって言うんだろうか。
その世界の敵の一人が、まさかこんなにどうしようもない人だって一体何人が知ってるんだろう。
十分にせよ、日曜日の午前から寝ていて。なんて怠惰なんだ。まだ掃除も洗濯も終わってないっていうのに。
俺の作った飯を文句を言いながら食べて、シャワー浴びて、全裸で出てきて床をびしょびしょにして(服を用意し忘れた。でも俺が用意しなきゃならないのはお かしい)、水を飲んで、
そして寝た。寝るぞって言って寝た。
こんなに明るいのに。
「………何がしたいんだ、あんた」
「甘えているんだ」
「うわ!」
いきなり真横からかかった声に思わず大声が出た。寝ている人の近くで大声を上げちゃダメ、そんな母さんの言葉も吹っ飛んだ。
「り、李さ」
「シ」
俺の言葉をさえぎったのはもちろん李さんだった。あの人から鍵を預かって、着替えから髭剃り、風呂まで世話をしている。
男なのにそんな扱いが嫌じゃないんだろうかと思ったけど、案外楽しそうだから俺はほうっておいていた。
その李さんはなんだか楽しそうに、俺を横からにやにやと笑いながら見上げてきている。近くで見ると、本当にあの人と歳が一つしか離れていないなんて思えな い。あの人も年齢不詳だけど。そして李さんの唇にうっすら色が差しているのに気づいた。
にしても、甘えているっていうのはどういうことだろう。
「その」
「レム睡眠だ」
「………」
「貴様が来てよりろくに寝ていないのだろう。あれもあれで仕事を抱えているのでな」
「………」
得意げ、としかいえない顔で李さんは喋り出す。腕を組んで、首をかしげて。
俺にあの人のことを話す李さんは、いつも意地の悪いような顔をする。イライラする。俺にどうさせたいんだ。
けれど、もし俺のせいで眠れていないのだったら確かに俺が悪い。たしかに俺の目の前でも仕事(だと思う。悪い顔をして)をしていた。
忙しいのに、俺がいたら落ち着かないんだろうか。
「風間仁」
この人も、あの人と同じように、俺を風間仁と呼ぶ。理由は聞いていない。
シャツにパンツ、俺の用意した簡単な服だけを着て眠っているあの人は今、大きなソファの上で丸まっている。

「何も奪われまいとしている。ふふふ、貴様にはわかるまい」
俺が今まで何も奪われた事がないとでも?くだらない。
そのまま俺が黙っていると、李さんはますます笑った。きれいだけれど、嫌な感じがした。
李さんが細い顎をしゃくった。もちろんあの人の方へ。
「ああして時折、集中しまとめて睡眠を取る事がある。その間は熟睡状態にあるから酷く無防備だ」

そのようだった。見慣れた険しい顔ではなく、死んだように眠っていた。苦しみとか痛みから遠いところにいるように見えた。

「それなのに私や、貴様に眠ると告げる。甘えているのだよ」

甘えている?
何が甘えだ?何が、どうして?わからない。
李さんが時計を見た。驚くほど細い手首だった。

「寝てから何分だ?」
「あ、五、五分くらい」
「そうか」

李さんの足元には毛布。持ってきたのか。わざわざ。わざわざ。ご苦労な事だ。あんな、どうしようもない人のために。
憎んでるんじゃなかったのか。
……憎んで?
俺が何か思い当たったのを見透かすように、李さんは顎を引いて俺を見上げる。手にした毛布。

「そう、自分を憎む相手を目の前に、酷く無防備な姿を晒す悪ふざけだ。甘えている」
俺へと毛布を押し付けて、李さんは言いたいだけ言ってさっさと玄関へと戻っていく。俺をからかうのが楽しいんだろうか。惑わせて、怒らせて。
李さんの前でもこんな事をするんだろうか。俺の視線に李さんは敏く唇を開く。
「もちろんだとも。あれは私で遊ぶのが気に入りだ」
遊ばれても腹を立てることすらしない。おかしな人だ。誇らしげですらある。変な人だ。俺は絶対にごめんだ、あんな人に遊ばれるだなんて。
にしても李さんはどこに住んでるんだろう。一度あの人が、
『天井裏にでも住んでいるかもしれんな』なんて言った事があった。しかしすぐに『…冗談だ』なんてばつの悪い顔をして言った。
冗談にもならない冗談だ。
けれど、俺はあの人が冗談なんてものを言うとは思わなくて酷く新鮮に思ったことを覚えている。


「風間仁」
「……え?」
「後五分は、何をしても起きないと言う訳だ。……何をしても」
やけに含みを持たせて喋る。冷たい色の唇へ人差し指を押し当てて、しー、というジェスチュア。……ん?何をしても。
……何を、しても。
それこそ冗談にもならない冗談だ!

「ち、違う!!」

分厚いドアの向こうから、仁の切羽詰った大声がもれ聞こえる。
それを耳にした李はマンションの廊下を歩きながら、高らかに笑いを響かせていた。
毛布はかけられなかったが、レースのカーテンは顔に当たる陽射しをさえぎった。