自室へ戻ってきた上司の顔を見るなり、秘書は痛ましさに眉をひそめた。
女の自分よりも、性のにおいを感じさせない分美しいとすら思い見蕩れていたその顔の頬が青く腫れている。
「なんて事を!…李様、頭首ですか?」
駆け寄り、おそるおそる尋ねると小さな頷きによる肯定が返ってきた。秘書は烈しい怒りを覚える。
(美を理解しないやからは、なんて許しがたいの)
秘書は備え付けの簡易キッチンへと駆け込んだ。その間李は倒れこむようにして椅子へと腰を下ろす。
小さな冷蔵庫を開けると、
(少しでも痛みがまぎれるかも)
少し考えてからウイスキーの瓶を手にした。グラスへ氷をいくらか入れ、瓶とミネラルウォータのボトルとをあわせてトレイへ載せた。次いで花を活けるのに使
う小型のプラスチックバケツを腕にひっかけ、駆け戻る。
「口の中は切れておいでですか」
「少し」
「まず口を洗わないと。少し沁みますけれど」
ウイスキーを混ぜた水を差し出すと、李は身体を起こして受け取った。グラスを手渡す瞬間、秘書は李の手に血が付着しているのを見つける。
(李様も殴ったのかしら)
優美で繊細、上品なこの李超狼という男を秘書はどうしても暴力や格闘技のイメージに結び付けられない。
李は秘書の前では獣のごとき狂気を見せぬよう心がけている。恐怖によって支配し、人を動かすのはたやすい。けれどその分全ての指示を自分で行わなければな
らない面倒さが生じる。それを省くためだった。
口をゆすぎ、バケツへと吐き出す。水と血との交じり合った紅い水。と、
カ、
白いものがバケツの底へと沈んでいった。底と触れ合ってかすかな音を立てる。
それが李の歯である事を、すぐに秘書の頭は理解した。
怒りで秘書は目の前が白くなるようだった。うつむき、沈んだ白い歯を睨みつける。
笑った時に覗く、李の歯並びは見事と言うほかない。折れたのは奥歯に近い歯だったが、それでもあの完璧なる律が破られた事に秘書は酷く憤慨していた。
(こんなにきれいな人を、どうして歯が折れるほどなぐれるのかしら。なんて粗暴で、愚かなの)
「あれは私の顔が気に入りだから」
ハッと秘書は顔を上げた。驚いたことに李は目を細めて笑っている。殴られていない方の頬は熱を持って上気し、殴られた方の頬にはグラスを当てて冷やしてい
た。
(恍惚?)
そんな考えが秘書の脳裏を走りぬける。すぐに首を軽くふって追い払った。
(そんな事、あるはずがないわ)
しかし李がたった今口にした言葉が気にかかる。
「李様?」
秘書に言うというより、李は自分へ言い聞かせているようだった。目はしっとりと潤みをもち、水滴が睫へ絡み目尻も赤らんでいる。
切れた唇の端を、薄い舌が一度舐める。何か甘いものを舐めているようなぞろりとした動きに秘書は顔をなぜだか赤らめた。
「あれは私の顔が気に入りだから。だから昔から、私を殴る時は顔ばかりを狙う」
「それは」
「あれはそういう性格だ。気に入っているものを破壊する事に何かの浅ましい欲望を叶えている」
震える唇、頬の内側が腫れているために声はくぐもって聞き取りづらい。
(あれ、というのは、頭首の事で)
頭首。
三島財閥頭首、三島一八。李の秘書をしている女も会う機会の多い、冷徹と呼び称される事の多い男。ほっそりとした体つきの李とは対照的に鍛え上げた身体を
スーツに包んだ、極道と言われても納得してしまいそうなほど凶悪に険のある男。
秘書は一八が苦手だった。李のように優しくもなく、人をいつも見下す男が苦手だったからだ。
その頭首三島一八は事あるごとに李を呼びつけては無理難題を言い、掃除など屈辱的な雑用を言いつけ、口元を歪めてあざ笑った。
尊敬する上司への仕打ちからも、秘書による三島一八の評価は低い。
しかしこの上司は用件ごとに腹を立てはすれども、憎んではいないようなのだった。それが秘書には不思議でならない。
「また面倒を言いおって…まったく困ったものだ」
そうぼやくことはあったが、それを嬉しそうにと思えるほどに率先して行動する李。
(たとえば恋人が、なにか可愛げのあるわがままを言ったような)
馬鹿馬鹿しいと瞬間打ち消したくなるような、そんな予想をさせる李の表情。
「たとえば好きな物を君、残すか」
「え?……ええと、楽しみに残しておきます」
李の白い指の中で、グラスの氷がからりと揺れた。光が乱反射し、グラスを通すと李の表情がひしゃげて見える。
「あれは、好きな物を人に取られないよう床に叩きつけて踏みつける」
「――――」
「だからあれは、私の顔を狙う。ふふ」
素直に、
(浅ましい)
と秘書は思った。それは表情に出ていたようで、李は更に笑った。
「少し休む」
短く李は言った。秘書は心得て頷くと部屋を後にする。その表情は暗かった。秘書の背を見送り、大きく李は息を吐き出して椅子に沈み込む。
グラスをデスクへと戻し、頬へと触れる。
まだ氷による冷えが残っていたが、しだいにじんわりと熱を取り戻していく。
「……ふ、ふ、ふ…ふふふっ、っは…ははははは!」
堪え切れない笑みが次から次から李の唇を滑り出、転がる。のけぞって李は笑った。椅子の肘掛を叩いて、気が狂ったように笑った。顔を醜く歪ませ、笑い続け
た。
(信じられないという顔をしていた!愛しいものを踏みにじるなどありえないという顔をしていた!)
(どうだ一八、お前のやっている事は誰にも理解しがたいと)
(そうして散ざん傷つけた私に浅ましく跨って、抱かれよがり狂うお前は、さながら踏みつけにし汚れた食い物を這い蹲って食う犬のようだ)
(愚かだ、愛しい)
「ははは」
酷く李は興奮し、性器は再び勃起のきざしを見せてスラックスの布地を押し上げつつある。
氷は全て水へ帰した。