湯浴み鬼、あがる くしゃみ合戦(遼と惇)
この乱世、
この現世、
どちらにせよ生まれてしまった仕方ない。
さぁゆこう。
どこへゆかれるのですか、
おいてゆかれるのですか。
なにを言ってるんだこの唐変木、
お前、お前もゆくんだ。
どこまでも、ゆくんだ。
湯殿を出た。
ふかしたての芋のように二人湯気を立てて、ほくほくと腰布一枚。
ぺたすた濡れた足音を立てて食卓が待つ居間へと急ぐ。
「腹が減ったなぁ、」
夏侯惇は濡れて色味を増した髪の毛をうっとうしげに束ねながら、隣を歩く張遼を向いて言った。
張遼はまだ一拍空けてはいたがすぐに、
「そうですな」
と答えた。血色が良くなって見える張遼の頬が見て取れて、なんとなく夏侯惇はさぁ飯だ、食うぞ、と声を大きく張った。うれしかった。
そしてふ、と目を細めると夏侯惇は張遼の顔をまじまじと、見つめ、どこか納得がいかぬようにうん?と覗き込んだ。
「どうかなされましたか」
張遼はふと先程の桂花の、穴が開いちまいますよぅ、という言い回しを思い出した。夏侯惇はもやもやと首を傾げながらとうとう足を止めて悩む。当然勝手のわからぬ他人の家、付き合って立ち止まるしかない。ふたり向かい合って、見合う。
うー・む、むむ、犬がうなるようだなと、その眉間によった皺の辺りを眺めながら張遼は自分に何か落ち度でもあったかと少々、不安になる。それでなくとも顔をこんなに至近距離から見つめられるのに気まずさもあって、ふと髭に手をやった。
「それだ!!」
突然夏侯惇が吠えた。どら声に張遼はびくり、その目を限界まで見開いてその格好のまま硬直した。
「ど、どうされたのですか夏侯惇殿」
「髭だ!」
「は」
「お前の髭が下を!下を!」
夏侯惇は両手の指を興奮した面持ちで大きく動かし、漢字の『八』を描いて見せた。どうやら自分の髭の向きに驚いているらしいと張遼はようやくわかり、そうでしたか、と静かに答えた。確かに濡れて、しとやかに下を向いている。流石に夏侯惇も苦笑した。
「いや、気を悪くしないでくれ。お前の髭が見事に天を向いているものだからな、つい気になって」
「気に、なりますかな」
自分では全く気にもかけていなかったので、張遼は何気なく件の髭をそっと指先でなぞってみた。
とたん、
ぴこり。
音がするように元気よく、待ってましたと髭が跳ねた。
見事に誇らしげに、乱れなく、天を向く。
「お、」
「あ、」
あまりに狙い済ましたような頃合に、二人揃って思わず声をもらし、
「ははははははは!そうだ、それそれ!!」
夏侯惇は指を突きつけたまま爆笑し、張遼は張遼でそんな夏侯惇の馬鹿笑いに、
「そんなにおかしいことでも、ありますまい」
と、滲むような苦笑を浮かべた。
裸の湯上り男が二人、廊下で笑っていれば当然春の冷気が忍び寄る。
「ばくしゃい!!」
「くちん!」
「なんですか夏侯惇どのそのくしゃみは、そん、……ぼえしょふぁ!!」
「おまえこそなんだそんな顔して、ひ、ぺくちッ!!」
盛大なくしゃみ合戦に見舞われることになった。
当たり前だがそう、なった。
火箸片手にいつまでたっても居間に現れない二人を案じて桂花が廊下に出てみれば、服も身につけずにびしょぬれのまま、お互いのくしゃみのけなしあいをしている二人を発見して、
「だんな様がた!!」
と、雷を落とした。おまけに夏侯惇の背中を容赦なく火箸でびしゃりと引っぱたくと、髪の毛を引っつかんで憤然と居間へと引きずっていく。
「いたたたたた、お前、主人に、おい、こらっ!!」
子犬が熊を従えている――張遼はそんなほほえましい情景を眺めながら、
「ばえくしゃい!!」
まだ、くしゃみをしていた。
桂花も思わず、涼しい男のくしゃみ将軍ぶりに笑みを零した。
居間に二人を放り込んだ桂花はすぐさま火鉢に炭を足し、真っ赤になるまで灰をかいておこして部屋を暖める。同時に二人分の服を火鉢の横において暖めながら、夏侯惇に見事な投球で乾いた布を投げつけた。
「それじゃあ身体を拭いて服を着て、火鉢の横であったまっといてくださいよぅ。私ぁ今、汁をあっためなおしてきますから」
居間を出る直前、桂花は太い眉を吊り上げて夏侯惇をにらみつけると、髪の毛もちゃあんと乾かすんですよぅ、でないと殿に言いつけますからね、と怖い顔で釘を刺していく。ばたばたばた、慌しい足音が遠ざかった。
「………」
「…………」
「ほら、」
「あぁ、かたじけない」
二人、うなだれて静かに身体を拭く。
大人の男二人、静かに服を身に着けた。
「安物で悪いな、客人用の服もなくて俺のものなんだ」
襟元を直しながら夏侯惇は、張遼に詫びた。家には絹の服なぞ一着しかない、それだって公式な席全てに着ているためにところどころほつれたり、ツギをあてているためにお世辞にも見栄えがいいとは言えない。張遼に渡した服はそんな中でもまだましなほうではあるが、彼の戦装束から考えて気に入るとは到底思えなかった。
張遼は部屋の片隅に有る籠にうず高く山になっている繕い物に視線をちらりと遣り、
「いえ」
とだけ言った。贅沢をよしとしない夏侯惇の人柄は、張遼にとっては好ましく思えて、
「夏侯惇殿は、清廉ですな」
と述べた。その言葉に夏侯惇は目じりをちょっと、赤くして、そうかと言った。
夏侯惇の髪の毛はまだ過分に水分を含み、服に触れた部分にシミを作っていた。目ざとく張遼はそれを見つけると、
「濡れていますぞ、」
乾いた布を頭に被せて手をかけた。
「お?すまんな」
夏侯惇は少々膝を折って屈んで、礼を言って微笑む。
わし、わしわし。
わしわしわしわし。
わし。
一連の流れで髪の毛を拭いているうちに、自分が他人の世話をやいているという事実に改めて驚いた。考えられない。ありえない。
どうしたことだろう、
不思議だ。
ああ不思議だ。
わしわしわしゃわしゃ、
わしわしわしゃ、
わしゃ、わしゃしゃしゃしゃしゃしゃ
「おい、」
わしゃわしゃがっしゃがっしゃがしゃ、
がしゃがしゃがしゃがしゃ、
「おい!!痛いぞ!!」
気付けば巨大鳥の巣と成り果てた頭の夏侯惇に張遼は目を剥いた。
「いかがなされたその頭は!怪物のようですぞ!!」
「お前だ!!」
桂花が食事の準備を整えて、二人を呼びに行くまで。
二人しばし、どつき合った。
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