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優しいひと。   (遼惇)


また今日も君にやさしくできなかった、
なんて後悔しながら次の朝がくるよ。















だいたい、
だいたいあなたは、
どすんとその場にあぐらをかいて唇を真っ直ぐ一文字に引き結んで、張遼は夏侯惇と向き合って正々堂々と、名乗りを挙げるがごとくに切り出した。

「聞いておられるのか、夏侯惇殿」
まなじりの切れ上がったその顔はものすごく怖い、細い目が赤く充血している。普段透ける程白い頬がぼわっと赤い。
酔っているのだ。
酔っているのだ、
夏侯惇は喉を鳴らした。






















めでたい席だった。といっても、曹操の何番目かの妻の懐妊だか誕生節だか、とにかく騒ぐ口実に適当に選んだような席である。
遠くで、調子外れな歌が始まって、下手糞にめいめいが囃し、身振り手振りおかしくだれぞ踊りだす―――楽しい時間が始まる矢先であった。

「おい、」

おい張遼お前いきなりどうした――、
夏侯惇は口元まで上げていた杯もそのまま、あんぐりと口を開けて張遼を見る。おい、と
呼びかけたきり、言葉すら出ない。

「聞いておられるのかッ!」

どん、どん、
いまいち反応の鈍い夏侯惇に張遼は拳で床を叩く。周りの馬鹿騒ぎに紛れて誰もこちらを振り向くものはいなかった。夏侯惇の救援要請の眼差しは誰をも通り越して、床に落ちた。
また後方で、わぁあ、と歓声が上がる。大きな笑い声の渦の中で、夏侯惇は次第に小さく背中を丸めてふかぶかとため息をついた。

「あ、あぁ、聞いてる」

夏侯惇の生返事に張遼は再びぐいと杯をあおり、

「だいたいあなたはですな――」
と、低く恨みがましい声で続けた。
























「だいたいあなたはですな、私をなんだと思っておられるのだ」
ぐい、
ぐい、
ぐい、
ごくりと酒を飲み干し、人差し指を夏侯惇に突きつけた張遼。声の調子は平静となんら変わることなく、清清と、なめらかで、強靭な、うつくしい発音のままだ。右手は調子を取るようにどん、どん、と石床を叩いては、時折ぴしゃりと膝を打つ。
左手は杯の底が乾く暇すら与えずに次から次へと酒を注ぎ、あおる。
言葉と言葉と、呼吸の間、その間全てにおいて張遼は繰り返し繰り返し、
「だいたいあなたはですな、私をなんだと思っておられるのだ」
と、言った。
流石にその物言いに夏侯惇も腰を浮かせ、
「おい、何を言ってるんだお前は。ったく、飲み過ぎだろう」
と、杯を取り上げようと手を伸ばした。が、

「私は貴方の妾になる気はありませんぞ!!」
と、大声で張遼は怒鳴った。背筋をぴんと伸ばし、腹筋を使って宴じゅうに響き渡る声で怒鳴った。
しん、
一瞬にしてその場が静まる。

途端にその場にいた全員が、酒に濁った目を二人に向ける。
微動だにせずあぐらをかいた張遼と、中腰のまま動くに動けない夏侯惇。
魏国が誇る二将軍が何か、諍いを起こしているぞ。
しかも何だか聞いてみたらどうやら、色事のようではないか。
そうとあっては、好奇心が疼かぬ筈がない。
全員が、視線を注いだ。

「おま、お前、」
それだけが精一杯の夏侯惇。
みるみるうちに首筋から耳たぶにもかけて赤くなる。
とうとう怒り心頭、いつもの調子で怒鳴りつけようと口を開いたところ、
再び張遼が口を開く。























「やさしくされたいのですぞ、」
はっきりと、張遼が述べた。酒に顔は染まってはいたが、決して酔狂ではない、眼差し。
あぐらをかいていた足はいつの間にか、正座に組みかえられている。
「は、」
「やさしくされたい、やさしくしてほしい、」
中腰のまま、夏侯惇が少し、のけぞった。足が杯を蹴倒す。酒がつま先を濡らした。
「夏侯惇殿、あなたに、やさしくされたいのです」
は、
吐息のようなため息と共に、
ぺたり、と夏侯惇は再び床にへたり込んだ。
「張遼、お前、」
「殿が、」
遮る。
睨む。
張遼は、また、酒をあおる。
「飯粒を頬につけていたらとってやり、箸を落とせば代わりを懐から出し、食事を終わらせたら口を拭ってやり、袖がほつれたら縫ってやり、」
どん!床を打つ。衝動で張遼の杯が倒れて酒がこぼれる。









「私には一度とてしてそのようなこと、して下さったことはありますまい!!」
叩きつけるように怒鳴ると、顔を伏せて、目元を隠し、拭う仕草。

「私は、あなたの妾になるつもりなんて、ありませぬぞ!!!」

くっ、と肩を震わせる。よよ、と姿勢を崩す。

「す、すまん」

「あなたは私を一生日陰の身にするおつもりか!」

「ひか…!?す、すまん」

「少しは甲斐性というものを持つがよろしかろう!!」

泣く子と鬼には勝てぬ、ましてや両揃いの張遼には勝てないと夏侯惇は慌てて謝った。
こめかみをひくひくさせながら、ため息をついてなんとか腰を落ち着ける。が、どうにも尻のすわりが悪い。

「悪いと本当に思っておいでか、」

ぎろりと子供が泣き出しそうな、こわい目が夏侯惇を睨む。袖で隠し切れぬ赤鼻をすん、とすすって、張遼はきつい口調でそう言った。

「お、おう、まぁな、悪かった、俺が悪い」

酔っ払いの言葉に取り合ってはいられないとばかり、手近な皿を引き寄せ、骨付きの鶏肉にかぶりつく。むしゃりむしゃり乱暴に頬張りながら酒で流し込む。

「それならば、今宵はとことん、『優しく』してもらいますぞ!よろしいですな!」

地を這うような低い声で、だがはっきりと張遼は断じる。

その途端夏侯惇はうぐっと喉を詰まらせて、目を白黒させて苦しんだ。



























長い長い間の果てに、夏侯惇はうーん、と困ったように頭を掻いた。
そして、教師に問いかけるような口調で、
「やさしくされたいのか、」

とたずねた。張遼は間髪入れずに頷き、赤い目を瞬かせる。
期待に上半身を乗り出して、片膝を立ててずいとにじり寄った。
ずい、一歩張遼が踏み出す度に、夏侯惇が一歩退く。

「是非されたいですな、」

「そうか、」

「是 非 、さ れ た い で す な 」

「……そうか、」

返答を聞くなり夏侯惇は張遼の腕を無造作に掴んで引き上げるように立たせ、片に土嚢でも担ぐようにしてよいせと抱え上げた。そのまま壇上の主君に一礼し、

「孟徳すまん、俺はちょっと戻るぞ」

と退出した。
張遼は酒の勢いもすっかり消えうせて真っ赤になり、おろして下され、と山賊にかどわかされた村娘のように哀願したが、即座にやかましいと却下される。

ずかずかと、廊下を歩む足音が遠ざかると、ようやく酒宴にざわめきが戻り、皆先程の光景を忘れようと杯を半ば自棄のようにがぶがぶとあおった。

あれは痴情のもつれであったか、と。
どこか空々しい笑い声が、天井を満たしている。
寝覚めの悪い酒に、なりそうであった。



























次の日、
どこかくたびれた風情の夏侯惇と、満足げにつやつや色艶のよい張遼。
二人に後ろ指をさしながらも、その後どうなったのかと聞く命知らずは誰一人居なかった。
「それで張遼、あれでよかったのか」
「勿論、まるで夢心地でしたぞ」

例の髭をひねりながら、陶然と目を細める張遼に夏侯惇はわからんやつだと首をかしげる。
「添い寝して、文遠と呼ぶだけで、か?」
「よいのです」

張遼は満足げに微笑み、
「次回は私がやさしく、してさしあげる」
と唇をちろりと舐めて鼻歌を歌った。
ようく晴れた、いい朝であった。
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