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氷鬼      忘却とぬくもりと手形






鬼はいつも、夢を見るのでした。
それは真白の大地の上、灰色の空の下。
鬼はいつも、夢を見るのでした。
それはただ一人、屍の山の上に立つ。
鬼はいつも、泣いているのでした。
それは足元に転がる屍が、とても大切な人。
鬼はいつも、泣いているのでした。
それは転がる屍の名前がどうしても、思い出せず。



鬼はもう、泣きもせずにいるのでした。



いつしか、その名も無き屍の一人になるのだ。
そう、鬼はわかっているのでした。
だから、鬼はいつまでも、そこに。

































「本当に申し訳ありませんよぅ、さっきの騒ぎの拍子に花瓶を客人の布団に落としてしまって…生憎客人用の布団は一組しかなくて…」
ひたすらに恐縮している桂花にそれ以上追及するわけにもいかず。











二人今、まさに一組の寝具で、同衾していた。









「…」
「……」
「………ちょっとお前、詰めろ」
「あ、あぁ…はい」
「………」
「…………」
「………せまいな」
「そうですな」
「はっきり言うな」
「………失礼致した」

もともと一人用の寝台である。二人それほどまでに大柄ではないとはいえ、二人が寛げるはずもない。どう動いても、どこかがぶつかる、息がかかる。

息苦しい夜の、始まりであった。



























灯りが消され、隣の夏侯惇から寝息というには明らかにやかましい音が聞こえる頃には、すっかり張遼の身体は冷え切ってしまっていた。
さっきまで風呂に入り飯を食い、夏侯惇と笑いあった自分が嘘のように思い出せない。
眠りは体から煙のようにするりと抜け、耳が痛い程の静けさに胸がつきつきと不自然に弾む。
この感覚は張遼にとって馴染みあるもの、戦の最中である。
戦の最中、普段どうやって眠っていたかどうしても張遼は思い出せないでいた。
身体を休めなければ戦に支障をきたす、そう自分に言い聞かせていつも目を閉じるのだが、必ず、鮮血、悲鳴、恐怖、怒号、轟音、金属の弾かれる音、火花、目、恐怖、
さまざまに恐ろしい、耐え難いものがまぶたの裏側から、鼓膜の内側から染み出して来て、毎夜張遼の元に現れるのだ。
繰り返し、繰り返し。毎晩きっかり現れるのだ。
その中には何か、とても大事にしていた人間の記憶や思い出など、含まれていたように張遼は思う。
だがそれが何であるか、誰であったか、どうしても思い出せない。
とても大事なものであったと思うのに、どうしても張遼は思い出せないのだ。
代わりにあの、たとえようも無く恐ろしい戦の記憶が隙間に詰め込まれていく。
張遼は体半分以上を戦に浸って、どんどん放り出していった。
それでもどうしても、思い出したくて張遼はあがく。
それがとても大事なものであったことだけは、わかるのに。
一つ一つ拾おうとしては失敗し、かえって粉々にしてしまう。
「あぁ、」
それはとても悲しい事なのに、どうしてそれを失ったのが悲しいのか、思い出せない。
それがまた、悲しい。
毎夜張遼は、新たに悲しみを得ては、悲しみを忘れていった。

そうしているうちに、いつ思考が途切れたかわからぬが、ともかく朝になっている。

身体は鉛を飲んで、泥につかっているかのように重く、まぶたには残像が赤や紫、黄色に緑の花が乱れ散っている。
唇はぱりぱりに皹割れて、目には化粧のような隈。指先、つま先等の末端はすっかり冷たくなり、じんと痺れて動かない。
「あぁ、」
今日もまた、始まる。
目をうっすら開いてみれば、世界には彩り無く灰色に沈んでいた。
兵が張遼の得物を運んでくる。その刃の銀色が、いつも目にする最初の彩りであった。
今日もまた、何かを忘れ何かを失くし、戦を詰め込む朝がまた来る。


そんな張遼にとって、呂布は彩りであった。
だれよりも強く、激しく、輝ける、光放つ存在であった。
呂布のように全て持っている存在の側ならば、失ったものも取り戻せるかもしれない。
張遼はそう思い、最強という名の華に従い、幾度と無く戦を重ねた。呂布の姿だけは戦場で埋もれることなく、全てを感じることができた。
そうして戦を重ねるうちに、ずいぶんと戦が、『わかる』ようになったと張遼は思う。
どう動けば、どう防げば、どう武器を扱えば、どう指示をすれば、いいのか。張遼は手に取るようにわかるようになった。
だが、張遼が欲していたのはそんなものではなく。
だが、どんなものを欲していたのかわからない。
そのうえたったひとつ、見つけたはずの光すら失って、
張遼は、自分はどうして、生きていて、どうして、

「おい、」


ぐむ。
唐突に張遼は、つま先を何か弾力のある、あたたかなものに挟まれた。

「冷たいぞ、さっき風呂に入ったのに」
「………ぁ、」
気づけば張遼は背中や首筋に質の悪い汗をべっとりとかき、悪寒に呼吸を乱している。
目前に、一つきりの目。
暗闇ですら曇りの無いと見てわかるその目に、少し張遼は安堵した。
この物もまた、光を備えていると、安堵した。


張遼の尋常ではない様子から、夏侯惇は息を混ぜた静かな声で尋ねてきた。
「………」
声すら、喉が張り付いてしまったようで出ない。ただひゅうひゅうと息が漏れるだけだ。
錆び付いた首をなんとか、かすかに横に振って、大丈夫だと示して見るも、
「馬鹿、」
大声で怒鳴られてしまう。
その瞬間、全身を縛っていた糸がぷっつりと切れ、同時に冷たい血液が身体に流れ出した。
かちかちと小さな音が静かな暗闇に響く、奥歯が笑っていると張遼は気づくまでしばし時間を要した。
「馬鹿、お前」
何故だかわからないが、夏侯惇は泣きそうな顔で身体を張遼に向けると、その冷え切ってしまった指先を手のひらで包む、握る、揉む。
つま先はふくらはぎでぐむ、と挟み、擦り合わせるようにして暖める。とにかく夏侯惇は、必死に自らの体温を分けた。

「馬鹿、お前…」

顔をぐ、と近づける。
息を吸い込んで、腹に力をこめて、大声で、





























「いい加減戦から帰って来い、馬鹿野郎!!」


ばちん!
と、夏侯惇は思い切り頬を張った。
張遼は口を開く暇すらなく眠りにどしんと叩き落された。





































「お、寝たか」
静かになった張遼を確認し、夏侯惇は身体を温めながら自らも眠りに赴いた。
赴こうと叩き落されようとも、行き着く先は一緒である。





鬼はいつも、夢を見るのでした。
それは真白の大地の上、灰色の空の下。
鬼はいつも、夢を見るのでした。
それはただ一人、屍の山の上に立つ。
鬼はいつも、泣いているのでした。
それは足元に転がる屍が、とても大切な人。
鬼はいつも、泣いているのでした。
それは転がる屍の名前がどうしても、思い出せず。



ですが鬼はもう、泣きもせずにいるのでした。



いまここに、傍らにいる人の名前だけ、抱えていることができたから。
何よりも恐れているのは、忘却。
忘れないでいてくれる人がいれば。



鬼はぬくもりを与えられて、ようやく、安らぎを得たのでした。
同時に頬に大きな赤い手形も、得たのでした。
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