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鬼の装束


蓋を、閉めよう。
鬼は全てを、醜い自分を小さな箱へと入れました。
箱を白い布で、くるもう。
鬼はそう、考えました。
花を供えて、日の当たるところに置こう。
鬼は更に、考えました。


箱のことなぞ、全て忘れてしまおうと。
鬼はすっかり安心しました。
が、よくよく考えれば、それは到底無理な話なのでした。

自分を忘れることなど、
出来るはずがありません。

鬼は愚かで、
臆病でした。




























張遼は縁側に腰を下ろしていた。
適当に切ったざんばらの髪の毛が、冷たい風にわっと地肌から持ち上がる。
その、風の通る感触も随分ぶりだと、張遼は記憶を探った。
少なくとも、戦の間に髪の毛に櫛を入れたことはない。
返り血がこびりついて固まって、寄れて麻縄のようになっているのもそのままにまた、戦場へと向かう。
そのうちに視界を遮って邪魔になってくると、小刀でぶつぶつと乱暴に切り落とす。当然長さも揃わないし、気温が上がれば蚤だってわいてくる。
ぐるぐるばりばり、容赦なく掻き毟れば、爪に血が。
頭皮からはけだものじみた臭いが漂っていた。
(あぁ…けだものであったのか)
腑に、つるりと落ちた。
来る日も来る日も殺しぬいた自分。
それがけだものでなくてなんであろうか。
だが、
これからは、違う。
そうありたい。
そうでなくて、自分はどうして生きているのだ。
張遼は指通りの良くなった髪の毛をそっと、かき上げてみた。
私はもう、人間なのだ、
手の平に、抜けた髪の毛がはらりと一本落ちた。



























「何を呆けとるんだ、」
どすんとその隣に、夏侯惇が腰を下ろす。
「か、」
かこうとんどの、
張遼ははっとして顔を上げた。
声が裏返っている。
「は、」
面食らったように、夏侯惇が静止し。
「はは、なんて顔をしてるんだ、お前は」
くしゃりと崩れるように笑って、どすんと張遼の猫背をはたく。
「!」
陰気が勢い良く鼻から口から空気と共に追い出され、張遼はこちらの川岸へと引きずり戻された。
曲がっていた背筋が伸び上がったのを見て、
「間抜けめ、」
と、夏侯惇はからかった。
憮然、張遼はむつくりと黙り込む。

寒々とした冬の縁側である。
陽射しが雲を通ってじくじくと当たってはいるが、未だ冬只中である。

「お前の戦装束だが」
夏侯惇は張遼のすぐ側、拳一つの距離で口を開いた。
風がその隙間を通る。
「はぁ、」
そういえばあれはどうなったかと、今更にして張遼は自分の戦装束の存在を思い出した。
周りの武将誰とも溶け込まず、然としてきわきわとしてあるその、鮮やかな彩色。
わざわざ調和を乱すような、ちくちく引っかかるような配色の装束を当然のような顔で纏い、張遼は戦場に立つ。
その姿はその武と同時に、強く強く深く残るものであった。
「桂花が困っていたぞ、あんなに上等な布を洗ったことなぞ無いそうでな」
「…はぁ、」
はぁ、としか答えようがない。張遼は誰かと用件や目的、結論のない会話をするのが苦手であった。
つまりは、雑談に慣れていない。
「しかもそんな上等な布に、これでもかと刺繍だ。どこぞの舞姫が嫁いできたようだと」
「……や、そんな」
こうした、軽口をうまくあしらうことなど不得意もいいところで、いつも黙ってじぃっと睨むことになる。
そのうちに、相手がそそくさと背を向けてしまうのだ。それを寂しいことだと最初は思わないでもなかったが、いつしかそれもどうでもよくなってきてしまっていた。
今、戦が終わり雑談を強いられているこの状況、背中がむず痒くて居心地が悪い。
いつものように、黙ってみることにした張遼に構わず足を投げ出してぶらぶらと夏侯惇はくつろぎ始めた。
夏侯惇という男、こういう図太いところがあるようで、そのまま背中を縁側に倒して寝転んだ。
「俺はお前を戦で見た時、芝居を見ているようだと思った」
寝転んでいた夏侯惇の太い腕が張遼の腕を掴んで隣に寝転ぶよう促す。客人だというのに全く頓着しないその腕にしぶしぶと強張りながら隣に寝転んだ。
縁側の天井は雨の黒い染みがぼつぼつとあり、天井が途切れると灰青の重たい冬空があった。まだ重たい冬空。
「芝居」
「おう、」
夏侯惇は犬がよくやるような、口が裂けそうになるあくびを一つして首元をがりがりと乱暴にかいた。
「ただでさえ赤くらいしかない戦場だっていうのに、随分沢山彩ってやがるなぁと思ったよ」
「……」
黙った。張遼は次の言葉を待つ。
「俺は思ったよ、こいつに斬られた奴は誰によって死んだのかをきちんとわかって死ねるんだと」
横目に見た夏侯惇の一つ目。それは閉じられていてその色はわからないようになっていた。空はまだ重たい。
「何が何やらわからんようになって死ぬのは、嫌だな」
自分に言い聞かせるような様子に、張遼はしばし、返事をするかどうかを迷った。空はまだ重たい。
「…嫌、ですな」
空はまだ、重たい。
遠くで風がうんうんと鳴いた。
























なんと、
なんと、
私は高揚していた。
ただ腐るような生き方だけはしたくない。
私は最初こそ流されて戦場に立ったが、今ではこここそが私を唯一証明してくれる場所であると思っている。
武、
ただ、武。
そうすれば私はただ死ぬこともないだろうと思ってのことだ。
ただ忘れ去られるのを恐れる臆病な私は、ここに在るのを主張するためにあの戦装束をあつらえた。
場違いな程のあの装飾。嫌でも目に入るだろう。
私に斬られ死んでゆく弱き者たちよ、
私の道となってゆく弱き者たちよ、
そなたらを断ち切るは、この私ぞ。
焼き付けてゆくがいい、
焼き付けて、

この人は、もしかしたら理解しているのかもしれない。
私はふつふつと高揚していた。

「俺の眼帯も似たようなもんだ、わざと派手にしてな、それで、」

銅鑼を打つような声で、

「この俺が曹孟徳の刃、夏侯惇よ!覚えておけ!」

と吼えた。遠くで何かを落とした音が続く。桂花殿が盥をひっくり返したのだろうと張遼は推測した。

「そうすれば、俺に斬られたとわかって死ねる」
張遼は起き上がった。青白い頬が少し紅潮している。

「私はただ死ぬことだけ、ただ忘れられるのはたえられぬのです」
本人にとってはとても長く感じられる台詞を吐いた。夏侯惇ではなく、まっすぐ前を向いている。睨んでもいた。
「俺もよ、…が、」
重たい空。
重たい空。
山の向こう、
静かにやってきた、薄桃、
ほんのわずか、冬は背を向ける。
























「俺はお前を覚えていよう、だから」
だから、
「私は夏侯惇殿を覚えていましょうぞ」
それだけ。
それだけ。
空は、ほんのわずか、明けている。
視界の隅、干された色鮮やかな戦装束がはたはたとゆれている。
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