何度目の初対面。
奇病。
それはまさに奇病。
それを魏国主君曹操は、こう評した。
『自分が最も想う人間のことを丸ごと、根こそぎ忘れる、恐ろしき病よ』
そしてこうも言った。
『病といえど慈悲はあるらしい』
その病はつがう二人、その両方に発病する。
感染シマシタ。
感染シマシタ。
アナタノ中ヲ、侵略シマス。
ワタシハアナタヲ、侵略シマス。
現在、体内最重要人物ノ検索ヲ開始イタシマシタ。
検索シテイマス。
検索シテイマス。
検索シテイマス。
検索ガ、終了イタシマシタ。
『検索結果ヲ、削除イタシマス』
面白くない夏晴れの朝、曹操は自分の臣下を見上げた。
髭に寝癖がついている。眼帯もずれて目尻が覗いている。
「孟徳、今日も暑いな」
夏侯惇はわらった。髪の毛をとかしてはいないらしく、陽のひかりに黒く透けてほつれが目立つ。
「そのようだ」
「もう夏だ」
二人は連れ立って、中庭へと続く城の廊下を歩き出した。廊下は長く、長い。
夏侯惇のほうが歩幅は大きくはあったが、その分ゆったりとしていて、肩を並べて進む。
「孟徳、」
名前を呼ばれて、曹操は夏侯惇を仰いだ。一つきりの眼をそんなに細めて見えるのか、と問いたくなるような上機嫌な笑顔を浮かべている。
「なんだ」
「小さい頃お前、俺と海へ行ったな」
「そうだったか」
「お前、浜で見つけた娘をしつこく口説いて、恋人に追いかけられて俺までえらい目にあったわ」
「ふん」
「その後海に放り込まれそうになって」
曹操は終わりの見えない夏侯惇の昔話を耳に入れながら、廊下の終点へ眼を向けた。
まだ終点は見えない。廊下が長いというのは悪くはないと曹操は思った。
それだけの距離を誰かと歩けるというのは悪くはないと曹操は思った。
だがその分、ひとりで歩くのは、悪いと曹操は思った。
夏侯惇の話は続いている。額と首筋に汗が浮いていて長い髪の毛が肌へ張り付いているのは見るからに暑そうである。
曹操はそれ程汗はかいてはいない。暑くないわけではないが、それでも涼しい顔をすることは手馴れたものだ。
その汗を袖で拭いながら、夏侯惇は暑い暑いと昔話の隙間に文句を垂れた。
聞き流しながら、こやつは変わらん、と曹操は足を少々速めた。夏侯惇は当然のように追ってくる。
夏侯惇はいやらしく言えば、素直な身体をしている。
こう言うと語弊がないでもないが、言葉以上に雄弁で、時折あけすけに過ぎることもあるが、曹操はそれも好ましいとさえ思ってはいた。
いた、というのは現在が違うということに他ならないが、
(病のせいよ)
曹操は苦い顔で、更に足を速める。誰ぞこの場に現れて、この昔話を終わらせてくれはしまいかと願ったが誰も現れない。鳥の声すらしない。
(病のせいよ)
もう一度、胸のうちで呟く。
きっかけは、病であった。
奇病。
それはまさに奇病。
それを魏国主君曹操は、こう評した。
『自分が最も想う人間のことを丸ごと、根こそぎ忘れる、恐ろしき病よ』
そしてこうも言った。
『病といえど慈悲はあるらしい』
その病はつがう二人、その両方に発病する。
評しておいて、曹操は誰よりそれを否定したかった。
だがそれは曹操自身がその完璧さゆえ許さない。
嫌でも、この病についての考察が正しいことを知らされる。
『夏侯惇よ、今日は張遼は一緒でないのか。昨日二人で遠出したと言っておっただろう』
『孟徳、何を言ってる?張遼とは、誰だ?』
『元譲ッ!きさま、』
きさま、その後何を叫ぼうとしたのかは今になってもわからないまま。そう思うことに曹操はしていた。
だが曹操は明晰である。わからないはずはない。
あの時、瞬時に曹操が感じた感情は、嫉妬であった。
裏切られた、とも思った。
あれだけ毎日自分に笑いかけておいて、
あれだけ自分へ命を軽々と預けておいて、
そのうえで自分を、一番ではないとその身は言うのか。
『孟徳、孟徳、』
『夏侯惇、お前、儂を…』
『何をいっとるんだ孟徳、お前より大事なものなどこの世にはない、あるはずもない』
だが、夏侯惇が忘れたのは曹操ではなく張遼であった。
『夏侯惇殿…ですかな、自分は張遼、張文遠と申す』
『ああ、…よろしくな』
『共に殿のため、魏のため精進しよう』
『そうだな、孟徳のため力を貸してほしい』
二人仲良く、最初からやり直すことになったのであった。
当たり前のように夏侯惇を忘れていた張遼を殴らなかったのは奇跡であると、曹操は思う。
変な喩えだが、自分の後ろをちょこちょこついてきては、
「将来おにいちゃんのお嫁さんになるからね!」
と宣言していた妹のような存在が、見知らぬ男と付き合うようになったという心境に近い。
具体的なようでそうでもないが、とにかくそういうことだ。
もともと夏侯惇に対して性愛を抱いたことはなかった、なかったはずだと思いたい。
しかしあまりにも激しい夏侯惇の求愛表現に、愛い奴、程度にいとおしみはしていた。
魏に降った張遼を世話するうちにねんごろになった二人。
そんなよくある筋書きを二人そろってちまちま歩んで、結ばれたのだという。
祝福しないわけではない。
だが、
だがそれでも、曹操は嫉妬を見せないでもなかった。
「孟徳、」
顔を覗き込まれて、曹操はのけぞりながら立ち止まった。
廊下はいつの間にか終点で、庭では向日葵が誰の世話になるでもないのにしっかりと根を張って群生しつつ咲き誇っている。
「む?」
夏侯惇は顔を息がかかるほど更に近づけてきて、具合を診るように顔をまじまじと覗き込んでくる。
「どうした、具合でも悪いのか。きちんと食事は取れ、酒は控えろ、女も」
永遠に交わらない古女房の小言が始まった。うるさそうに手をふって遮ろうとし、そのまま手を伸ばした。
黙らせるように曹操は夏侯惇の髪の毛を掴んで自分の身体の方へと引っ張りよせ、唇を自分の唇でぶつけるように塞いだ。
すぐに離す。
「な、」
血がわーっと夏侯惇の顔に集まって、よく動くはずの舌がもつれている。
首筋のところまで赤になっているのを見て、曹操はまったく素直な身体だと舌打ちをしたい気持ちになった。
口では世界一信じたい嘘ばかりつきおるくせに、よくも、よくも。
だが曹操は笑う。
混乱に陥った夏侯惇のすぐ後ろに、憎むべき愛すべき自分の臣下張遼が立ち尽くしているのを見つけたからである。
「との、あ、の」
張遼も張遼で口をぱくぱくしている。
曹操はたまにはよかろうと、憎まれ口をきいた。
勿論相手がわからないと知ってのことである。
「のう張遼、夏侯惇、お主ら、何度目の初対面だったか」
かなわない、
ああ、ああ、かなわない。
曹操は笑う。
何度忘れようと、何度忘れようと、
時間がかかろうと、いつの間にか、必ず、必ず、
必ず、恋に落ちるのだというのか。
奇病。
それはまさに奇病。
それを魏国主君曹操は、こう評した。
『自分が最も想う人間のことを丸ごと、根こそぎ忘れる、恐ろしき病よ』
そしてこうも言った。
『病といえど慈悲はあるらしい』
その病はつがう二人、その両方に発病する。
『治療法は簡単なことよ、やり直すがよい』
何度でも、何度でもだ。
ここにその治療のすべてがある。
世界の真中を、曹操は見たように感じた。
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