百日紅 垣間見(操惇?)
凹凸という字を見たとき、しっくりと納得がいった。
なるほどあれはああいうことかと、
曹丕はふんと笑うと、一人合点で頷いた。
とても暑い日で、随分と湿気の高い日であったと記憶している。
昔、まだ自分が子供だった頃。
その頃の父は近隣の平定やら内乱の鎮圧に忙しく、滅多に母や私の元には戻らない日々が続いてい
た。たまに戻ったとしても新しい妾や遊び女の元を遊びまわる父に、優しく美しかった母は毎日の
ように泣いては酒に溺れ、私に当り散らしていた。今思えば、覇王としてでなく男としての父と、
見る影もない母に幼い私は軽蔑すら抱いていたと思う。
父への反発のように毎日を勉学と鍛錬で過ごし、決して父のようになるまいと励んでいた。
そんなある日、庭で剣の型を書から学んでいた私の元に、
「毎日精が出るな、子桓」
「叔父上、」
夏侯惇、父の部下であり従兄弟、自分にとっては叔父にあたる男が声をかけてきた。
片方しかない目を細めて略式ではあるが礼を取り、汗を浮かべた顔で微笑んだ男にこちらも礼を返して手を休める。
「幼い頃の孟徳かと思ったぞ、しばらく見ないうちに見違えたなぁ」
そういうと私を撫でようとしたのだろう、夏侯惇は分厚くて硬そうな手のひらを私の頭上に差し出してきた。反射的に振り払ってしまった。父のようだと言われたことも、子供扱いしようとしたことも、どちらも十分に当時の私にとっては不愉快だったのだ。
「叔父上、何をしに来たのですか」
咎めるような口ぶりになってしまったのは仕方がないと思う、今であれば表面上の笑顔で取り繕うことも出来ただろうが、やはり、子供だったのだ。
叔父上は怒っても良かった、いくら主君の子息とはいえ年上に対する礼儀のなっていなかったのはこちらなのだから。しかし叔父上は、そうかぁ、と笑ってまた、汗を拭っただけで何も咎めはしなかった。
「いやなに、孟徳のやつにこれを届けに来たんだ。あの野郎これじゃないと仕事がはかどらないだろうに、」
布にくるまれた細長い包みを懐から取り出して叔父上は私に見せた。受け取ってその布を解いてみると、一本の使い古した筆が出てきた。
華美ではないが、筆の尻の部分に見覚えの有る小さな玉がついている。
そうたしか、母上の簪にも同じ玉がついていたはず。
「この筆、子桓の母上が贈られたものだそうでな、孟徳はこいつが宝なんだと」
叔父上は何故か、少し、しおしおとしていたように見えた。
「子桓、構えてみろ」
突然叔父上はそう言うと、庭の片隅で満開を迎え、ずっしりと重たげに下がっていた百日紅の枝をぽきりと折った。ひゅん、と叔父上が枝を振ると薄紅の花弁がほたりと散って、かすかに香る。
「は、」
「書から全てを学ぶわけにはいかんだろう」
百日紅の枝で私が使っていた書物を指し示し、にっ、と唇の端を吊って僅か自嘲気味に笑う。
「さ、この盲夏侯めがお相手つかまつりましょう」
私はその物言いについ笑ってしまい、今度こそ、木刀を構え直した。
「せいっ、」
「えや、」
「はっ、」
精一杯、覚えたことを全て駆使して木刀を振り回しているのに、全く持ってかすりすらしない。
叔父上はただ百日紅の頼りなげな枝で受け流すだけ、反撃すらしてこない。
「くッ、」
全て見切られている居心地の悪さに次第に苛立ちが募り、奥歯をぎちぎちと鳴る程に食い縛ると懇親の力を込めて、振り切る。ぶ・と空気が鈍い音を立てて切断されたのがわかった。
いける、今度こそ取った。私だってやれる。
そうだ、私は父を超えねば・ならない!
「やああッ!!」
木刀が叔父上に襲い掛かる寸前に、叔父上が消えた。ように見えた。
瞬間、
「甘い、」
冷たい、聞いたことのないような声で、叔父上。
同時に額に小さな痛みが走り、目の前に薄紅の花が舞う。
ついで、真っ白になって。
転倒、昏倒。
「子桓、お前は優しすぎる」
低くて、柔らかい、さっきとぜんぜん違う叔父上の声。
母を思い出した。髪の毛をすく指先。感触は全く違って、ごつごつしているが。
額には冷たい、濡れた感触。
目を開くと驚くほど近く、真上に叔父上の顔があった。眼帯をはずしているため、生々しい傷跡が顕わになっており、別人のように見える。
「おじうえ、」
「動くな、飯も食わずに鍛錬していたそうだな。身体が参っているぞ。そのまま」
起き上がろうとすると、大きな手のひらに押し止められた。ぐ、と後頭部で弾む感触。
「お前の寝室がわからなくてな、ここは広くてかなわん。まぁむさくるしいだろうがちょっと我慢してくれ」
―――もしかしなくても、叔父上の膝だった。
私は完全に諦めて、はい、と答えて硬い太ももに頭を預けた。
叔父上の頭上に、満開の百日紅。
笑っているように、ふふ、と、揺れていた。
私も少し、笑った。
「子桓、お前な」
叔父上は側に置いた桶に紫の布――眼帯だ――を浸して絞り、再び冷やして私の額にのせてくれた。確かあの眼帯は父が特別に命じて作らせ、叔父上がいつも大事にしていたものだ。
静かに叔父上は言って、私の頭を撫でる。今度は甘んじて受けた。仕方がない、迷惑をかけているのだから。
「お前、戦場ではもっと汚くならないと、死ぬぞ」
わざとだろう、とても怖い顔と声で。
「………」
「お前、何故俺の左側を狙わなかった」
「!」
「いいか、いいか子桓、絶対に生き残った方が勝ちなんだ。どんな汚いことをしても、それでも、
しんだら終わりなんだ」
ちちうえのようなことを言う――
そう言ったら、叔父上は苦笑して飯はきちんと食えよ、と笑いしばらくしてから父の部屋に消えた。
自室に戻って寝台につくと、落ちるように眠りについた。
百日紅、薄紅の夢を見たことを覚えている。
目を覚ました時には既に、夕暮れを回って夜間際。
そのままもう一度眠ろうかと思ったが、袖机に置いたままだった眼帯を手に父の部屋に向かう。
まだ叔父上はいるだろうか――
そう言えばさっきの礼もまだ、していない。
足早に、私を廊下を急いだ。
父の部屋にはまだ灯りがともっていた。
入り口の戸は風を入れるためか、細く開いている。
もし政務を行っていたらと邪魔にならぬよう、その戸の隙間からそっと、覗き込んだ。
先程のように床に正座をしている叔父上。
その腿に頭をのせ、足を投げ出して寛ぐ父。
父は髪の毛すら結っておらず、服も寝着のまま。
父が何事か言うたびに、叔父上が笑う。
つい、と父が手を上げて、
叔父上の唇に、触れた。
唇から、舌が―――
ちゅい、鼠鳴きのような、
濡れた、音が。
凹凸、
なるほど納得だ。
私は幼いながら納得し、静かに部屋へと戻った。
後日、百日紅のあの枝を添えて、眼帯を送り返した。
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