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るりるりと。


おれだってわかっているのだ、
おれだってわかっているのだ、
だが仕方ないだろうが、
なぁ、
おい、
嫌いなわけでは、決してないんだ。
だがそれを口に出すわけにはいかないんだ。
わかってくれと言うわけにはいかないんだ。
なぁ、
なぁ、
おい、
嫌いなわけでは、決してないんだ。
だがそれを口に出すわけにはいかないんだ。



























都の中心部、色町である。
夜を半分過ぎても人通りは絶えることなく、むしろ増えつつあった。
そこを歩く人々は皆どこかふわふわと浮かんだようで、誰一人として地面を見ながら歩いているものはいない。
色町とはよくいったもので、どこもかしこに極彩色が映えている。
そしてこの色町の女は皆したたかで、自分の売り方をよっく心得ているのであった。
精一杯艶めいた声でもしと呼びかけてみるもの、
逆に物慣れない風情でおずおずと袖を引いてみるもの、
裾を直す素振りで自慢のうなじを見せ付けるもの、
店の前に腰を下ろして、青いまでに白い脛を着物の裾から覗かせているもの、
「すごいな」
「そうだろう」
ほんのわずか雑踏ににじんでしまいそうな張遼の呟きに、すぐ前を歩いていた夏侯惇が振り返った。
その浅黒い額は赤い光に照らされて毒々しい色をしていて、得意げなその笑顔も不気味なものに思われてしまい張遼は声をくぐもらせる。
「もっと若い頃はな、孟徳につれられてよく来たもんだ」
また孟徳である。いい加減張遼は顔に出さぬようにするのも大儀になってきた。
ゆったりとした衣の袖に隠していた腕を出すと、あちらの店はどうであった、こちらの店はこうであると歩きながら説明を始めた夏侯惇の足並みは説明をするその度に左右にぶれた。
張遼はその指先が指し示す先ではなく、むき出しの日焼けした腕の内側、その白い部分に目をじっと注いでいる。
(白いところもあるのか)
小さな新鮮さと喜びを覚えて、自分も同じように袖から腕を出すと手の平を持ち上げて見る。まだ硬くなっていないまめがぶよぶよと水をたたえていた。
(蛾のようだ)
珍しく張遼は詩的な表現をしてみせた。勿論自分の脳内での発言であるし、更に言えば喩えも無骨である。
張遼なりにこの色町という空間に酔っているのであった。
あちらへこちらへと誘われる夏侯惇の後姿を見れば、確かに火に誘われる蛾のようでもある。
花に集まる蝶のように、とはとても言えないぼたぼたと重たい動作に、どこか野暮を全身に纏っているその姿はやはり、蛾であると張遼は一人納得をした。


ならば、私は。
ならば、と。
張遼は少し思考を夜気に遊ばせてみた。
足取りが自然とこの町を歩く人間特有のふかふかと浮いたものになった。
目線も左右の景色が交じり合って、二重写しに輪郭がぼやける。
どういう仕掛けかは知らないが、赤、緑、紫と色のついた火。
女の声、男の声、
化粧か、香木か、濃密な香り。汗も混じっているのか、それとも涙か。
張遼は綿を踏むような足取りで、ただひたすらに夏侯惇の背中を追った。

ならばならば、私はなんだろうか。瞬時には浮かばぬ。
我ながら詩才が無い。張遼は苦笑した。
蛾でなくて、蝶でなくて、
たった一人だけを呼びたくて、
たった一人だけに呼ばれたくて、
手を伸ばそうと決めたというのに、
伸ばしてみようと決めたというのに、
「あなたを追ううちに、すっかり陽の下へと出てきてしまったというのに」
自分が呟いた言葉ながら、耳は水を入れたように膜が張って音が遠い。
呼べばいいのか、
呼んでいいのか、
夏侯惇殿。
目の前に揺れる、褐色の太い腕。
ささくれの目立つ指。
この手に導かれて地の底から這い出てきたのだ。
ならば私はもぐらであるか。
あれは目も見えない上、耳も聞こえない哀れな生き物ではなかったか。
納得が、いかなかった。
そこで張遼は手を伸ばしてみることにする。
震える手を伸ばしてみることにする。

手を肩と水平に上げ、夏侯惇の左右へ指し示す右腕へと伸ばす。
地の底より這い出てきたときのように、あのときのようにもう一度あの腕に触れたかった。
脚を早める。
音は消えていた。戦の最中のようであると張遼は思う。
色も消えていた。いよいよもって戦の最中のようであると思った。

あとほんの少しでその腕に手が届く、というまさにその瞬間。


その手の中に、一輪の茶色くなりかけた紅椿が一枝差し出された。
「おう」
突然目の前の世界へ割り込んできたその無粋者を思わず勢いに任せるがままその手の内へと収めてしまい、
「これは」
何が起こったのかと立ち止まって張遼は左右を見渡した。遊んでいた意識が急激に引き戻されたため、寝起きのような鈍い動きである。
その様子に気づいて夏侯惇がぐるりと振り返った。花を一輪手にしてうろたえたように立ち尽くす張遼の姿にかっと歯を見せて人の悪い笑みを浮かべて、
「この色男め、色町は初めてだと言っておったが、なかなかどうして」
やりおるなぁと顎髭を手の平でさすりながら、その椿の差出人を探り出そうと張遼と同じくその場を見渡した。
「夏侯惇どの」
「なんだ、そんな顔をするな色男。私に花をくれたかわいいお方よ、どこにおられるのですかと呼んでみろ」
「……」
「どんな女か、俺にも見せろよ」
なかなかに残酷なことを言うではないか、この片目め。私の気持ちをわかっておいて。
舌打ちせんばかりの苦い顔で、張遼は花の茎を握り締めた。
「………」
骨の浮いた、尖った顎を反らして奥歯を噛み締め、
もうこうなれば何度でも言ってみるのも悪くない、と開き直ることにした。
もとより伸ばしたことのないこの腕、
肉をつかめぬのなら、
言葉で伸ばすのも悪くはない。張遼は決めた。少し微笑んでもいた。
「貴方以外に、興味なぞない」
はっきりと、言った。声は少しも震えてはいない。
頬は赤かった。赤い火に照らされているからだ。
「夏侯惇殿以外に、興味なぞ」
繰り返した。
じゃり、と踏み出した足の下で敷き詰められていた玉石が鳴った。ついほんの少し前まで綿の上に立っているようだったのに、今では両足で地を踏みつけにしている。
夏侯惇は面食らったようであった。眉が寄る。眼帯に覆われていないほうの、たった一つの目が瞬きをした。
「お前はいつも突然だな」
返されたのは拒絶ではなかったが、苦笑であった。それが張遼には不満でならない。

「お前のそれがもし、ただの思い過ごしだったらと思うと、俺は死ぬほど恥ずかしいだろうが」

そう、夏侯惇は言った。苦笑ではなかった。
額も頬も赤い。赤い火に照らされているからか、張遼には判断がつかない。
だが、本気かもしれないという漠然とした感覚はあった。

「それはどういう」
また一歩踏み出した。玉石が擦れる。踏み込みに力を入れすぎたせいか、ぎぢっと嫌な音を立てた。
問い詰めるという行為に、張遼は殆ど経験がない。それだけ深く関わらなかったということを含めて、言葉での激しいやり取りというのがどうにも苦手であったからである。
語るのならば、戦えばよい。言いたいことがあるのならば切り結べばいい。私に言いたいことがあるならば、まずは武をもって問うがいい。
だが今は、刃よりもたやすく、刃よりも深くまで届く言葉でのやり取りをしたいと、強く思った。
「夏侯惇どの」
詰め寄る、という行為にも殆ど経験は無かった。
興奮している、と張遼は気づいた。
きっとこの町の雰囲気のせいか、張遼は自分に決着をする。
と、

「やぁ、ここだここだ――」
二人の隙間、約二歩程。
その隙間にまたしても無粋者が入り込んだ。
今度は花ではなかった。声である。
声色を使っていないのか、女にしては少し低く、落ち着いた声である。
声だけではなかった。
腕が、二人のちょうど真横からにょっきりと生えている。
出所は二人の立つすぐ横の店の窓、格子の隙間からで、腕を殆ど出す格好であり、肩口まで惜しげなく素肌を出していた。
「む」
「何だ」
二人がそれぞれ一歩ずつ脚を退いたのをきっかけに、その腕が店の中へと手招きを始めたのだ。
顔を見合わせて、それから二人はその腕へ視線を注いだ。
腕は細く、肉が殆どついていなかった。張遼などは、先日食べた湯の出し殻のようであると感想を抱く。腕を曲げた関節には骨と筋の形が露骨すぎるほどに露骨である。
また、肌の色にも二人は目をぐいと惹かれた。
褐色である。
夏侯惇の腕や額のような、日に焼けた褐色ではない。もっと深くもっと濃い、溶けるような褐色であった。
異民族であろう。
二人はその腕をたどるようにしてその主を見ようと顔を動かした。
腕は格子の隙間から伸ばされており、夜だというのに明かりをつけていないのか、部屋の中は薄暗くてよく見えない。

「そんなところで喧嘩をするな、さっさと入れ」
男のような物言い。
目を凝らしてみると、
部屋の中で、何かが光った。
瑠璃、
瑠璃、
るりるりと、
水をたたえた、濃い緑色がるりるりと笑った。
瞳である。
「花を受けとったろう、さぁ、」
























その声に促されるようにして、
二人は顔を見合わせた。
毒気も色気もすっかり抜かれて、
「…入るか、」
「は、そうしますかな」
そうすることにした。
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