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しばらくして!恋慕

あなたが世界をくれたのです。
あなたが世界をくれたのです。
鬼は叫びました。声も嗄れよと叫びました。

すべてをあなたはくれました。
すべてをあなたはくれました。
鬼は叫びました。涙を流していいました。



何を恥ずかしいことを大声で叫んでいやぁがる。
おら立て、さっさと来い、もたもたするな。
人間は鬼をなぐりつけ、ずいずいと道を歩き始めた。
鬼は右へ左へとよたよたしながら、それでも小さく微笑みながら、人間について歩き始めた。


























「あのなぁあのなぁ、このままでは困るんだよ」
すっかり晴れたある夏の午後。
汗みずくになって二人縁側にだくだくと転がっていた時のことである。
いつになく鎮痛な面持ちで夏侯惇は唐突に切り出した。上半身は着古された安物の麻織の着物をもろ肌脱いでだらしなく胡坐をかいてはいたが、口元目元はくつろいだ様子はなく、厳しい硬さを持っていた。
その様子に張遼も自然と肩に力を入れて上半身を起こす。張遼は青灰色の一応客人用の薄物を羽織ってはいたが、羽織るというよりかはかいた汗でまとわりついていると言った状態である。
首筋から鎖骨へと流れた汗を手の甲で拭いながら張遼は縁側の天井を仰いだ。今までにこれほどまでにぢとぢと濡れ熱を持つ夏を経験したことはなかった。
あるのはいつだって極限まで乾燥しきって肌がひび割れる強い風と、りんりんと凍りつく雪であった。そしてそれらの記憶は全て自分が歩いてきた戦場の記憶でもある。
「何かありましたかな」
そう答えれば、歯切れの悪い口ぶりで隻眼が目尻を下げた。顎鬚をざりざり親指と人差し指でひねりひねり、首を傾げて、
「そろそろ孟徳よりな、自立を促せと言われとるんだ」
張遼がそろそろいい加減うんざりするほど何度目かの孟徳を口にした。孟徳を口にするときの夏侯惇殿は少し変だと、魏に降ってから一月で張遼はしっかりと学習している。
しかしこの孟徳馬鹿めと思っていても口には出さない賢明さで、張遼は目線一つで促した。声を出すのも億劫だったと言えばそうでもある。まったくにこの国は、熱い。熱いのだ。
張遼の内面の渦巻きに気づいた様子があるはずもなくこの愛すべき片目の凡愚は更に孟徳を積んだ。
「孟徳がなぁ、お前が俺にばかり頼っているのはあまり、良くないと言うんだ。確かにお前、魏に来てこの家以外殆ど出歩いてないだろうし、閉じ込めるようで気が引けるな」
まったく、まったくに納得できなかった。今の話のどこが良くないと言うのか、張遼にはまったくに納得できなかった。
「貴殿が好きだ」
だから正直に張遼は答えた。とたんに隻眼がぎょろっとつり上がって、
「馬鹿」
とどやされる。
「馬鹿ではない」
最近ようやく張遼は、手を伸ばすということを覚えたのだ。
何も実際に対象へと手を伸ばすということだけではない。
何かを欲しいと思うこと、
何かをしたいと思うこと、
何かにされたいと思うこと、
何か、に対して、欲求を持つということである。
これが今までの張遼にはそれはもうごっそりと抜け落ちていた。当たり前である。戦だ。
戦の最中にそんないくつもいくつも抱えていられるわけがないというのが彼の持論である。
生きたい、
生きたい、
生きたい、
今だけでいい、
生きたい、
戦が終わってしまえば、今まで全力を尽くしていたその力は全て余ってしまい、それからようやくにして、彼のそのすぐ側にいた男へと向けられることとなる。
夏侯惇殿、と不器用な男は持ちうる全てをもって、手を伸ばすのだ。
しかし、その張遼よりも大分人間としては先輩で、世界と繋がって生きてきた夏侯惇としてははなはだ困ったことになったというのが本音である。
生きるというのが生存という意味と同義であった張遼の生活というのはそれはもうすさまじく荒んでいた。それを一からどやしつけながら正して世界への接点を増やしていこうと尽力するのはやりがいもあったし、何より張遼ほどの武人に指図できる少々卑屈な面白みもあった。
だが、そこで張遼が自分を好いてくれるというのはまったくの、まったくの計算外だったのである。というよりも普通はそんな可能性を考えたりはしないと夏侯惇は思ったが、結果としてはそうなった。




ある春のうす雲とろける月夜に、青ざめた顔で張遼は夏侯惇を呼んだ。
惇殿、夏侯惇殿と呼んだ。夜中である。春の夜空、夏よりは黒味が強いものの、冬よりかは目に見えて青い夜空。
うす雲の影間月に照ったその顔はいつにもまして青ざめている。初めて冬に会った時のように、唇をぱりぱりにひび割れさせて張遼は言った。
「気づいたら、ああ、すっかり気づいたら恋慕していたのです」
その言葉を紡ぐその顔は、恋慕する者が見せる恥じらいだとか不安だとか情熱だとか、とにかくそれらしいもの全ては見つけられなかった。変わりに、
困った、
といった風情である。困った、あまりにも困っている張遼にどうしてだか夏侯惇は、
「おうそうか」
と答えてしまったのである。後に酷く後悔をすることになった。
俺はなんと言うことをしたのだ、
あそこできっちりと断っておけば、あいつも悪い夢から醒めようものを。
寝室の木壁を拳で叩き、きりきり歯を鳴らして食いしばるようになった。
応える気も、受け入れる気もなしにただ、答えてしまった。これであのどこまでも進軍する男はただありもしない終点を目指して歩くのだろう、それを考えるとやりきれなかった。
そこに、つい先日の曹操の進言である。気楽に酒を酌み交わしていたその最中、天意知るその瞳がたやすく夏侯惇を捉えた。
「最近お主、張遼を独り占めしておるらしいのう。このままではあやつが孤立しかねん、そろそろ自立させたらどうか、家が必要なれば用意しよう」
張遼の恋慕も、
夏侯惇の失言も、
全てを見透かすかのようなその言葉にただ夏侯惇は頷くしかできなかったのである。
そうして、今、二人縁側で寝転んでいる最中に切り出すこととなったのであった。


「馬鹿め」
突き放すことに失敗し、吐き捨てた夏侯惇の背中の丸さを張遼は目を細くして眺めていた。
私なぞを傷つけまいとして、言葉を選んでそうして失敗して黙りこくっているのだ。張遼は理解した。そして、まったくに納得はしなかった。
「馬鹿ではありませぬ、」
理解のできぬ振りをした。少し憤ってもいた。
静かに隠棲していた鬼をその穴倉から力任せに眩しい日の下へと引きずり出しておいて、その日に慣れて穴倉へは戻れぬようになってから自らは傷つかずに放り出そうなどと、随分と都合のいい話ではないかと憤ってもいた。
もとはと言えば、夏侯惇がずかずか遠慮なく張遼に踏み込んだのが発端である。張遼自身は世界との接点を望むこともせずただ白白と武であろうとだけしていたのに、それを良しとせずに振り回したのだ。
張遼は夏侯惇に手を伸ばした。他に抱えていたその薄暗の穴倉、血の味を覚えた舌、戦の匂いを嗅ぎ取る鼻、全てを放り出して手を伸ばした。
それを取れぬというのか、張遼は憎んでもよかった。
だができない。
それはとにかく、
「気づいたら、ああ、すっかり気づいたら恋慕していたのです」
そういう一言で片付けることになった。恋慕の代償にしてはあまりにも大きいが、もとより今まで伸ばしたことのない手である。
張遼はとことんに、手を伸ばすことにしただけのことである。
とことんに。

「強情張りが、だがこれは孟徳の命令なんだ」
折れる様子のない張遼に舌打ちして、夏侯惇が縁側に立ち上がった。酒が入っていて立ち上がる動作が酷く鈍い。
次いで腕を伸ばして張遼の腕を掴む。一本釣りの要領で引っ張り上げると苦心して作り上げた、こわい顔をして見せて、言った。


















「これからお前は、俺とおんなを買いに出かけるんだ」















雌肉の味を覚えさせるがよい――
曹操の言葉を忠実に、忠実に夏侯惇は実行に移して赤子の如き鬼を突き放しにかかった。
当の張遼はつられて立ち上がりその言葉を聴き、自然と鬼のおそろしい顔に成り果てて、



「どこまでもどこまでも、ああ、恋慕しておりますぞ」
泣き出しそうな声でそう、言った。
夏侯惇は小さく畜生と唸る。それを聞いた張遼は微笑んだ。
「ああ畜生畜生、どうして俺なんぞにもったいない」
いびつながらも苦笑して、二人それぞれの思惑で発つ。








月がとろけて、
月がとろけて、
雲が散って、




夏の夜、二人連れ立って妓楼へと向かうことになった。
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