おわれるものたち 千里行前夜。
こわいものはあるか。
男は至極真剣な顔でそう尋ねた。
わしにはあるぞ。
おわれるものたち。
曹操は椅子に沈むように深く腰掛け、目を閉じていた。
珍しくそれは穏やかな時間で、何をしようかなどと選択する余地があるほどであった。
「詩歌でも、読むとするかのう…」
それとも女でも抱くとするか、それとも酒でも元譲と酌み交わすか。
つらつらと考えながら、ほう、息をついた。
「そうだな、このような宵は、元譲と過ごすに限るであろうぞ」
あの無骨な、雅を解さないおとことこのうつくしい晩を詠んで過ごそう。
そう思って立ち上がった。
「…む?」
それは突然訪れる。
こめかみの辺りが鼓動に併せて
ずぐ、
ずぐ、
ずぐ、
と息づくようにひどく痛みだしたのだ。
「ぬぅ…ッ、」
奥歯を噛み締めてみても一向に収まらないその痛みに堪らず呻き、髪の毛を結っていた紐を解く。
髪を引っ張っていた力が無くなったことで多少痛みが和らいだかと思われたが、抑えていたものが無くなり痛みの感覚が一層速くなった。
「ぬう、ぐッ…う、ううううッ…!!」
無様に椅子から転げ落ちる。恥も外聞も無く頭を抱えて床にはいつくばった。
血液がどんどんと勢いよく心臓から叩き出される流れに乗って、痛みが頭に運ばれていくのになすすべも無く呻くことしかできない。
「うううううううううッ!!」
一際大きく痛みの塊がこめかみの細い血管を無理やり押し広げて入ってきた瞬間、
ぷつん、と何かがはじける様にあっけなく意識は遮断された。
やさしい圧迫が、羽毛のようにそっと、ふうわりとあてがわれた。
ぐ、
ぐ、
ぐ、
一定のリズムで、痛みが血管から、頭から痛みが押し出されていく感覚に曹操はようやく浮上した。
ぐ、
ぐ、
ぐ、
それは一番酷く痛むこめかみの窪みの下方より押し上げるようにして、円を描くように凝ったものを的確に散らしてくれる。
「あぁ、」
たまらなく気持ちがよくて、思わず声が漏れた。しかしその声は老いた烏のようにしゃがれており、喉には引き攣るような痛みまで伴っている。
ぐ、
ぐぐ、
ぐぐ、
指は――、そう、誰かの指は曹操の声に心得たと言わんばかりに頭蓋を包み込み、硬く強張っていた頭皮を揺するように小刻みに揉み解した。しばらくそうしてやっと後頭部にまで温かな血液が流れ込み、頭全体に行き届く。
「むう――、」
また、痛みが戻ってきた、痛みと言っても悪い物を全て押し流した疲労のようなもので悪質なものでなくどこか心地よくさえある。
曹操はため息とともに吹き返した。
「 孟徳、」
やさしいこえが、ひきあげる。
「もうとく」
やさしい片目が、見下ろしていた。
大分頭痛がほぐれてくるにしたがい、部屋の惨状が目に飛び込んできた。
割れた酒盃、倒れた椅子に卓、竹筒に立てていた筆はご丁寧に6本全て真っ二つに折られている。
床に敷かれた敷物には硯が転がり、床一面に豪奢な墨絵を施した上に墨の匂いをぷんぷん振り撒いていた。
見れば爪の隙間には敷物の繊維がびっちりと詰まっており、更に何か赤黒いものがこびりついている。
「大丈夫か、孟徳」
律儀にも同じ間隔同じ力具合で曹操の頭を膝に乗せて揉みながら夏侯惇は尋ねた。
「毒ではないようだが、医者を呼ん」
「元譲、」
夏侯惇の言葉を遮り、止めるのも構わず曹操は跳ねおきる。
蝋燭の明かりに照らされた夏侯惇の様子は、ひどいものであった。
「…元譲、」
あまりの惨状に、一気に意識が自分の管理化に置かれて状況把握を図る。
髪の毛は引き抜かれたのか床に毛根ごと何本も落ちている。
残った片目の目の周りには痛々しい青痣。
唇はばくりと切れて血液が擦れたように顎まで伸びている。
手の甲には生生しい爪痕、肉がごそりと削げている。
「元譲、」
かっ、と目を開いて曹操は裏返った声を上げた。
儂か――、と尋ねようと口を開いたところに、大きな手のひらが曹操の目を優しく覆う。
「平気だ、気にするな」
平素となんら変わりない夏侯惇の低い声と、
暗闇に覆われた視界が次第に曹操に落ち着きを取り戻させる。
「すまぬ、」
「ああ」
それだけ呟くのが、曹操には精一杯であった。
休みなくこめかみと盆の窪を揉み続ける夏侯惇。
「大丈夫か、孟徳」
「うむ」
「後で薬師に薬湯を持って来させる」
「うむ」
「朝議は休め、」
「……」
「朝議は休め、」
「……むう」
「…」
「……」
「…………」
「…うむ」
しばらく沈黙が続き、部屋には薪の爆ぜる音のみが響く。
「それでな、元譲」
「うん?」
突然、曹操が目を閉じたまま声を発した。
てっきり眠っていると思っていた夏侯惇は、間の抜けた返答をよこす。
「儂はやはり、覇道を貫くしかないのだな」
「あぁ?なんだそれは、それじゃまるで――」
「痛いぞ、ちゃんと揉め」
「……」
しばらくまた沈黙が続き、部屋には遠く、厩舎から馬のいななきが届く。
どうやら夜明けも近いらしく、鳥が高く一声鳴いた。
「だからな、元譲」
「…おう、」
また、曹操が目を閉じたまま声を発した。
やっぱり眠っていなかったかと思っていた夏侯惇は、気のない返答をよこす。
「この頭痛、天意によるものぞ」
「典韋?」
「この頭痛、は、天の、意思に、よるもので、ある、と言うておるのだ」
「……ほう、」
「……」
「……」
曹操は説明をする事にした。
夏侯惇の硬い腿に頭を乗せたまま人差し指を立てる。
「儂がな、例えば、『国中の女を侍らしたい』と思ったとする」
「いつものことだろうが」
「た と え ば 」
「……わかったわかった、……で?」
「その時天意はどう思うか、儂の頭を締め付けると思うか」
「ふん…、やはり天意としてはそうするだろう」
曹操は笑った。
「天意は儂を、放置するだろうよ」
「どうしてだ」
「女では、一時しか儂のこの渇きを満たしてはくれぬとわかっているからだ。じきに飽いてまた、走り出す」
「そうか」
「この痛みは、儂が天意から外れようとすると起こる」
ぐ、と親指の腹を強く頭皮に押し付けて夏侯惇は、しばらく考え込んだ。
「なあ孟徳よ、お前、何を」
その言葉を遮るように曹操は早口で述べた。
「こんな夜お前と酒を酌み交わせるならなにもいらぬと思うたのよ」
おおおん、
おおおおおん、
けだものの遠吠えが響いた。
「が天意と秤にかけるのは、夏侯元譲…おまえのみよ」
曹操の声からは、何も読み取れない。
夏侯惇は黙って、乱れた曹操の髪の毛を手櫛で直している。
「儂がお前にかまけすぎて、天意がお前を害すようなこともあるやもしれんぞ、元譲」
「俺こそ曹孟徳の覇道の障害だというのか?」
夏侯惇は、笑っていた。
「そうだとしたらどうする、元譲よ」
ふんッ、
夏侯惇は鼻で笑い飛ばした。
「それなら尚更急いで行けばいいだろうが、」
簡単だろうが、
「そうか」
曹操は手を伸ばして、夏侯惇の頬に触れた。
暖かい。
「そうだ」
夏侯惇はいつも通りに堂々と頷く。
「そうだ元譲よ、儂がお前に傾かぬように協力せい」
頬から指を滑らして、切れてしまった唇を慎重に拭う。こびりついた血の塊が剥れ、真下にあった曹操の瞼に落下した。笑って曹操は夏侯惇の髪の毛を引っ張ってからかう。
「協力?」
片眉を跳ね上げたまま、夏侯惇は鬱陶しげに身を退こうとするも、髪の毛を曹操に掴まれているためにかなわない。
「そうだ、お前が常日頃儂にその身を捧げておれば儂は天意に背くこともなかろう」
段々と二人の顔の距離が縮まっているのに夏侯惇は気付き、顔に焦りと引き攣り笑いを浮かべてごまかした。
「いつも捧げているだろうが」
「閨もか」
「ねッ…」
間髪入れず曹操が口を挟むと、夏侯惇は見る間に怒りと羞恥に顔を赤黒くしていく。
心配して損した――、とは言わず、無言で夏侯惇は立ち上がった。
「うっ」
石床に曹操は頭をぶつけ、弓なりになって悶絶した。
「散らかした部屋を片付けてから休め!元気なようなら明日の朝議にも出ろ!!」
肩を怒らせて、部屋を出て行ってしまった。
すがすがしい笑いが、曹操を満たしてあふれ、笑みを作り上げた。
「儂の、曹孟徳の天意は、我が傍らに有りよ!!」
その後、隻眼の猛将夏侯惇は曹操の覇道に向けてより一層の尽力をしたとのことである。
余談だがこの時より曹操と夏侯惇の夜の営みも一層激しく、また頻度も上がったとの報告がある。
初操惇。惇兄が天意だったらいいな、って。
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