夏 縁側で
夏、縁側で
体温を上回る気温、
服を重くする程の湿度、
遮る物などなにもない日差し、
騒ぐ緑、
なにか発酵したような饐えた匂い、
地に落ちてつぶれた果実、
誇る蝉、果てた蝉、
「だがそれが夏というものだ」
私は夏が嫌いだ。
思考も、鍛錬も、食事も、水も
全てが一枚うすぼんやりとしていて、軽薄に思われる。
夏が嫌いなのだ、
思考も意識も身体も、全ての方向が狂うから。
「だがそれが夏というものだ」
彼は違うようだ。
毎日大股で歩き、食事を山盛に平らげ、身分からは考えられぬほどの粗末な麻の薄着一枚で、魚や肉、食事を沢山に携えて私の元へと頻繁に遊びに来る。
そして、私が夏に関しての不平を言うと、必ず笑う。一つきりの目尻が下がって、子供を相手にする母の顔で、諭す。
「だがそれが、夏というものだ」
そう言って、共に酒を飲み肴を食べてひとしきり話した後、私の手をそっと握る。
最初はそれが、もしや今宵、と淡い期待をしていたのだが、彼が直後あんまりにも悲しい様子で肩を落とすものだから、抱き寄せかねてしまう。
「なにか悲しいのですかな」
聞いてみても、答えない。はぐらかされてしまう。またそのはぐらかしも下手なもので、
「や、その、…なにもない」
と顔を赤くしてうろたえうろたえに答えるものだから、さてこれはいよいよ何事かあると思わざるを得ない。
彼にはとことん、嘘をついたりごまかしたりする能力が絶望的にないのだと私は知った。殿であればそれこそ口八丁手八丁で真実も嘘もまぜまぜにしてしまう。
二人はよい凹凸で出来上がっているのだろう。
そうして私はといえば彼が帰った後、独り寝で悶々とするのだった。
「さて…」
私は天井に向けて、先程彼が握った手を伸ばしてみた。
自分の手ながらあきれるほどに白い。なよなよとしている訳ではないが、それでも他の武将と比べても少々、骨っぽいような気がした。
この手を握って、彼は何を調べていたのだろうか。
目は当分の間眠りを訴える気配は無いように思えた。
そうしてまた、目の下に隈をこしらえる。
そうしてまた、彼の来る日を心待ちにしている。
そうしてまた、
「早く夏が終わらぬものか…」
と、祈ってしまう。
夏は嫌いだ、思考もなにもかもめちゃくちゃな方向へ向かって、自制の利かない速さで飛んでいってしまうから。
彼に言ったら、やはりこう言うのだろうか。
「だがそれが、夏というものだ」
夏のせいにしてもいいのだろうか、
私は悶々と、夜明けを待った。
八日ほど経って、また夏侯惇殿はやってきた。
久しぶりであった。
相変わらず粗末な格好に、民がするような編み笠をかぶって。
日焼けした顔で、ようと手を振って見せた彼は背中に籠をしょっている。
また、何か料理を持ってきてくれたのだろう、その顔は得意げだ。
「相変わらず白いな、外には出てるのか」
「室内でも充分に鍛錬は出来る故」
「だろうなぁ」
「お変わりないようで」
「おう、」
「焼けましたな」
「あぁ、見ろ、眼帯の日焼けが出来た」
「あは」
「笑うな」
「ふ、」
「笑うなと言ってるだろうが」
「はは」
「……」
ごっ
「………」
「…………」
「……………」
「………………飯、持ってきたから」
「かたじけない」
危うくおそろいの眼帯をすることになるところであった。
私は左目を押さえてうずくまりながら、礼を述べた。
久しぶりに、台所が機能しているのを見た気がする。
そういえば、最後に自分で食事をしたのはいつ頃だったか。思い出せぬ。
こうも毎日暑くては食事など喉を通らぬうえ、飲み込むのもおっくうである。
なぜかほとんど腹が減らないのでついつい、茶を飲んで寝てしまっていたのだ。
彼が来るといつも私の食生活をひどく叱る。そしてぶつくさ文句を言いながら、それでも背中を丸めて支度をしてくれる。
そうして私もそれが定着してからは、いつも通り忙しく食事の準備をしている彼を後ろからただぼんやりと眺めていることになった。
最初は手伝おうと申し出もしていたのだが、初回彼の指を切り落としそうになってそれ以来、申し出は却下されている。
また私も提案しなくなった。
彼もそれほどうまくはないものの、おそらく家人が下ごしらえを済ませたもののようで、そこまで苦戦はしていないようなので問題は無かろう。
髪の毛を適当に結って、背中を丸めている姿はどこか所帯じみていて、私には好ましく見えた。
「今日は何を持ってきてくれたのですかな」
暑さに重たい頭を起こして座っているだけでいるのも暇なので、今日の献立を聞いてみた。あのご機嫌な顔から、何か自信ありげなようだったからだ。
「まぁ待て、今日はとっておきだ」
鼻歌でも歌い出しそうな声が返ってきた。本当に今日は何か自信作らしい。
前回、おやつだと作ってくれたものを私は思い出した。玉蜀黍の粉に卵だかを加えたものを蒸篭で勢いよくふかした、子供の頭ほどもありそうな饅頭に、まだ熟れるには少々早い頃の酸っぱい杏を煮詰めたものをかけて出してくれた。
熱々の、ほくほく湯気を立てるその饅頭は柔らかくて熱くて大きくて、夢中でかぶりついた。そんな私の様子を見て、彼は子供だなお前はと苦笑を浮かべていたのも併せて思い出される。
私から見ればそのような、すぐさっきまではただの粉であったものが、どうしてそのようにふわふわな饅頭になるのかが不思議で面白くて、それがさらにうまさを増していたのだろう。
考えたらなんだか食べたくなってきた。思い出したように腹も鳴る。
私の頭の中はあの黄色い饅頭に頭を占領されかかっていたようだ。
「おい、まだかかるから先に湯を使ってきたらどうだ」
突然かけられた声に喩えでなく本当に飛び上がってしまった。きゃっとか声が出ていたかもしれない。
継続して鳴っていた腹に、かれの眉がつり上がる。
「腹減ったのか」
「はぁ」
「昨日は食ったのか」
「……はぁ、」
「食ってないんだな」
どうやら私にも嘘をついたりごまかしたりという能力は備わっていないようだ。もちろんそれは彼に対してだけだともわかっている。そうこうしているうちに私は着替えを手ぬぐいを押し付けられて、湯殿へと放り込まれた。
いつのまに準備したのだろう、驚くべきことになみなみと湯が張られている。
「おぉ」
思わず感嘆の声を上げると戸の向こうから、
「きちんと肩までつかれよ」
と声が飛んできた。
私は言われるがまま風呂を使い、じっくりと身体を温めた。
記憶をたぐれば、最近こうしてしっかりと風呂を使った記憶がない。いつも井戸の水を暑いからとざぶざぶ浴びてしまいにしていた。
もともと汗をかかない性質だったのでさして気にもしていなかったが、彼はあのむさ苦しい外見からは考えられぬ程にそういうのを酷く嫌うので今後は気をつけないといけない。
ざぶりと音を立てて、湯船に身体をつけることにした。
湯殿の外では細君よろしく、彼が食事の支度をしている。
知らず、頬がゆるむ。
鼻歌すら鼻ずさんでもいいような気持ちにすらなってきた。
「ふー…ふふー…ん…」
思った以上にうまい。私には武芸のほか、歌の才能もあったのだろうか。
確認もこめてもう一度歌ってみる。おお、やはり、なんと、
私はそれから頭がぐらぐら茹だるまで黙々と歌の練習をするのだった。
「夏侯惇殿」
私は一刻も早く、彼に歌を歌ってやりたいと思い台所へと急いだ。
「おう、長かったなーっておい!!なんて格好してんだ!!」
振り返った彼は菜箸を振りかぶって私を怒鳴る。しまった、私としたことが身だしなみを忘れるとは、慌てて髭の向きを整える。よし、これでいいだろう。
「プラプラ全裸で来るやつがあるか!」
更に眉をつり上げた彼に思い切り頭をどつかれた。なるほど、私がこのような生まれたままの姿でいきなり現れたから、彼も求められていると早合点をしたのであろう。
私はつとめて柔らかく、かつ誤解であることを述べるべく口を開く。
「とにかく服を着てこい!!」
半ば鬼と化した彼にもう一度殴られそうになって、冷や水を浴びたように我に返った。
「ふぁ、」
返事もそこそこ、うなずきも適当に。
しおしおと、濡れた廊下を戻ったのであった。
「床!ふいとけ!濡れた足でペタペタ歩くな!!」
布巾を投げつけられ追い打ちまでかけられては致し方ない、
私はこれから毎日歌の鍛錬を心に決めたのであった。
既に夕暮れ。
彼が開け放った窓から風がすいすいと通って、私を撫でゆく。
ただ水を浴びた時よりも身体の表面はさらさらとしていて、実に心地がいい。
彼の用意した着物は粗末であったが、肌になじむ上、汗を吸ってくれるようだ。
そこで私は、自分が汗をかいていることに気づいた。不思議なものだ、いつもより今の方がよほど涼しいのだというのに。
「ふむ、」
目を閉じてみると、台所から香ばしい香りと、なにか私の知らぬ香りがした。
遠くよりころころと虫が鳴いているのが耳に届く。
深く息を吸い込んでみた。あのむっとするような草の匂いの代わりに、かわいた地面の土臭さがまじっているように思う。
やはり夏は終わる、そして秋が控えているのだ。
少々、もの寂しい気がした。
彼が活けてくれた、図々しいほど寝室で主張する黄色のひまわりも、
夕立後の、どこか生臭い匂いも、
肌のひりつくような日差しも、
過ぎゆくのだ。
少々、もの寂しい気がした。
「おい、」
額にあたたかな手のひらの感触。
彼の声は優しかった。どうやら私が寝ているのか確認に来てくれたようだ。
彼の手のひらからは水のにおいがする、水を使っていたのにあたたかなのがなんとも不思議に感じられた。
目を開くと、思ったよりも近くに彼の顔があった。怖い顔をしている。
「飯を食えるか」
口調はいつだって怒ったようだったが、私にはとても優しく思える。
「もちろん」
彼はおうと太い声で答えると、安産型の腰を上げて台所へと戻っていった。
すぐに戻ってきた彼は、大皿とおひつをそれぞれ片方の手に掲げている。
庭に面した縁側で食べようという彼の提案にしたがい、ずいぶんと涼しくなった縁側に二人、向かい合って座る。
尻には洗濯物を敷いた。彼は凄く嫌な顔をしていたがなだめる。
「それくらい買ったらどうなんだ」
「不自由を感じないので」
「俺は不自由だ」
「そうですかな」
「おう」
「では今度、買うとしますかな」
「そうしろ」
そこまで言うと、彼は竹筒を手にすると酒をすすめてきた。私はおもしろみのないつるんとした素焼きの盃を掲げていただく。
酒を受けると、今度は私が竹筒を取って、彼にすすめる。
二人同時に酒を干すと、庭に目を向けた。夕闇がいつの間にかすぐそばまで寄っている。
素早いものだと感心しながら、彼の用意した料理に向き直る。
一抱えほどもある大皿一面には、何か知らないものが並んでいた。
薄いぎざぎざとした石のような物に、黒いヒダを周りにつけて、青みをおびた乳白色の柔らかそうなものがのっている。
かすかに生臭いようないい匂いなような、なんとも言えぬ匂いがした。
私の気持ちを見透かすように、手酌で二杯目の酒を舐めながら彼は、
「それは牡蠣というものだ」
と説明してくれた。牡蠣とは私が見たことのない海に住む貝の一種で、とても旨いのだという。
貝と言えばしじみ位しか知らないが、それと一緒にするには大分大きい。軽く私の手のひらより少し小さい位だ。
「カキ」
「ただ殻を剥いただけだ、生で食うのがうまい」
そう言って彼は端の小さめの、ぼってりと厚い身のを取って、私に見せるように殻を傾けるとつるりと流し込んだ。
むにむにと租借すると、堪えるようにうくく、と笑って酒をまた、流し込んだ。どうやら彼にとって堪えられぬほど旨いらしい。
私もならって手を伸ばすと、灯りの下ではたっぷりと水分をたたえてひんやりとしたその身がとてもそそるものに見える。
殻から注ぐようにして身を頬張ると、強烈な香り。これが海の匂いか。
舌の上でぷりぷりと弾力のある身に歯を立てると、かすかに苦い塩味を伴った汁が口に広がる。ついで甘いような味が遅れてやってくる。
思わず、目を細めた。
喉を冷たいまま通り過ぎていく感触がとても、すばらしい。
そのままろくに味わいもせず、飲み込んでしまった。
「どうだ?」
既に二つ目の殻を空けて酒を干していた彼が、含み笑いでこちらをのぞき込む。
私も酒を舌に転がしながら、
「や、いいものですな」
と、答えた。
「普通は春に旨くなるんだがな、この種類だけが夏に旨いんだ」
「ほう、」
「身体にもいいそうだぞ」
「ふうむ」
「さ、ぬるくなる前に食えよ」
「うむ」
私は頷くと、まるまるとした身を口に運んだ。
あっという間に夕闇がすっかり縁側まで染みこんできたころ、彼は灯りを傍らによせながら、
「まだ食えるか」
と、聞いてきた。すっかり皿の上の牡蠣を平らげたとはいえ日頃の不摂生がたたったと見えて、まだ腹にはだいぶ隙間が目立つ。
「あぁ」
私の返事に彼は、手のひらを少し上回る程の大きさの丼をおひつから取り出し、手渡してきた。
中には何か混ぜ込まれた飯と、白菜の漬け物がその上にかぶせるようにしてある。
彼はその上に、何かを揚げた物を四つほどのせた。
箸を渡しながら、
「飯に生姜を刻んで混ぜて、さっきの牡蠣をな、ちょっと揚げたんだ」
と説明してくれる。
私は丼を抱えるようにして食べ始める。
白菜の漬け物で牡蠣と飯をくるむようにして、わっしと口に頬張る。
じゅっと甘い、熱々の牡蠣の汁が、酸っぱい白菜の味と混ざって大変に、美味しい。
つるつるしていた身が弾むような元気のある感触となって口で暴れるのだ。
あの、ちょっと強すぎる香りも飯に混ぜた生姜によって和らぎ、食べやすい。
彼に礼を言うのも忘れて、ただ飯を食べ続けた。
にぶい黄色の月が、ようやく空を中程まで渡っていた。
満腹の心地よさに惚けていると、彼がそっとまた、私の手を握った。
いつもと違い、満足そうで、嬉しそうに笑っている。
私もいつもと違っていたのだ。
牡蠣のお陰で精がついていたのかもしれない。
ぐ、とその手を引いて、腕ごと彼を引き寄せる。
彼はわ、と驚いたように私のすぐそばまで来てくれた。
「どうしたんだ」
「抱いてもよろしいか」
素直に口をついてでた言葉に、目を丸くした彼は、
「急に元気になりやがって」
と、額を小突いてきた。抵抗のないことをいいことに、そのまま縁側へと押し倒す。
うッと彼が苦しげに呻いた。私は驚いて手を放す。
「どうされたのだ」
彼は背中をかばうようにして起き上がると一言、
「背中がな、」
と苦笑した。
「背中がいかがされた」
「ん、その…牡蠣を採るのについつい夢中になってなぁ…」
日焼けが凄いのだ。
彼は少し、恥ずかしそうに目を反らした。
私は思わずはっはと笑い、
「子供のようだ」
とからかった。彼はむきになって拳を振り上げ、
「お前!」
と大声を出した。
私はその拳をそっと、彼がしたように優しく、そっと、両手で包む。
「おい、」
「いつもこうして、私の体温を看ていたのですな」
小さな声で、告げた。
ぬるい風、秋の匂いのする風が隙間を通り抜ける。
「いつも冷え切っていた私を気遣って、滋養ある牡蠣をとりに行ってくださったのか」
「………」
彼は答えない。だが私は気づく。背けられた顔はわからないが、彼の耳は、確実に、赤い。
「おかげで、ずいぶんと生き返りましたぞ」
「……そうかよ」
彼の頬に手を伸ばす、が、その途中の空中で捕まえられてしまった。
「……なら、遠慮は無用と言うわけだ」
え、と、私は目を見開いた。
私の中指に舌をはわせると、それはそれははしたない顔で、に、と笑う。
「背中が痛いぶん、今日は俺が上で動いてやろう」
「か、こうとん、殿」
「夏は、盛るもんだ」
「わ、」
「夏ってのは、そういうもんだ」
ぬるい風、
濁る空、
汗ばむ肌、
曇る思考、
だがそれが、夏というもの。
夏というのも、悪くはない。
私は、現金な自分を笑いつつ彼の腰を引き寄せた。
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