満たされ鬼 桂花一人勝ち
どんどんと行こう、
どんどんと、
草木を掻き分けて、
どこまでも行こう。
どこまでも行ける、
どこまでもどこまでも、
光の中貴方が見える。
二人額に汗をびっしょり浮かべ、すっかり熱くなった体を手扇ではたはた扇ぎながら台所から入ってきたよい匂いに鼻をひくつかせた。夏侯惇は遠慮なく着物の襟をばっくりくつろげて風を送り込んでいる。張遼は遠慮がちに顔と首筋を桂花があらかじめ用意しておいた手拭いでぬぐった。
「正直、驚きましたな」
先ほどの料理に大量に入っていた生姜のせいもあり、つま先までじんわりと暖かくなっているのを感じ取りながら張遼はぼつりと切り出した。夏侯惇はすっかりだらしなく着崩れ、緊張感の抜けきった顔であぁ?と答える。
「自分があれほど、飢えているとは思わなかった」
学者のように気難しげに腕を組み、首をひねりひねり張遼は考え込んだ。どこにあれだけの『欲』があったのだろうかと、皆目見当もつかない。
「そうか?何も驚くことじゃぁあるまい」
事も無げに夏侯惇は言ってのけた。何も不思議ではないとばかりに言うその様子に、張遼は唖然として口を開く。
「今までは戦だったんだ。全部の欲、寝たい食いたい女を抱きたい、とかが、全部『殺したい生きたい奪いたい守りたい』に集まってたのだろう…それに、」
すらすらとそれだけ言って一旦言葉を区切ると、一つきりの目をきゅっと咎めるように細めて軽く、夏侯惇は張遼を睨み付けた。張遼は慌てて居住まいを正す。
「お前まだ、魏に降っても戦から帰ってきてなかっただろう。寝ない食わない抱かない…いつも刃物みたいだったぞ」
いかんぞ、と教師のようにしかめっ面で低く説き、家に誘った時と同じく張遼の目を覗き込んだ。そこには少しだけだが、何かが、命のようなものが窺い知ることができた。少なくとも夏侯惇はそう思った。
「…そうですな」
改めて自分の生活を振り返る…なるほど夏侯惇の言うとおり、寝ない食わない抱かない…戦が場を変えただけのようなものであったことが張遼にはようやくわかった。
「……そう、ですな」
もう一度、一言しみじみかみ締めて頷く。それから感心したように夏侯惇の片目をしげしげと、髭をひねりながら覗き込む。
「それにしても、たいした観察眼ですな」
夏侯惇は茶を飲みながら何簡単な事だ、と苦笑い。しばらく天井を睨んで見上げた後に、
「目を失うまでの俺と同じだったんだ、」
と、早口で言った。気恥ずかしいのだろうかそれとも暑いのだろうか、頬が少し火照っている。
「ほう…」
じ、と張遼のあの底知れぬ眼差しが夏侯惇を射抜く。どこか面白がっているようにも取れる呟きと視線に夏侯惇はとにかく!と卓を叩いて誤魔化した。
「と に か く !お前はとにかく食って寝て、抱け!遠慮せず思う存分抱け!」
夏侯惇の剣幕に圧されて反射的に張遼は、答えてしまった。とにかく答えてしまった。ごくごくまじめに、きまじめに。
「貴殿を抱くのか?それは…ごめんこうむる」
茶碗がものすごく飛んできた。
ばたくたばたくた。
桂花は今度は大皿に山となった炒め物を盆に掲げ、廊下を小走りに急いだ。こういう急いでいるところに、女の着物はやはり不便だ。今度袴の一つでも余り布で作ろうか、などと考えながら、丸い顔に汗をかきかき急ぐ。
「あぁもう嫌ですよゥ、ずいぶんかかっちまいました」
今日に限って薪の機嫌が悪く、主人だけでなくあろうことか客人までも大分待たせてしまっていた。桂花がもっとも嫌いな、食事の段取りがうまくいかないこの事態に足は自然と早まる。飯桶に入れた麦や雑穀を混ぜて炊き込んだ飯の重みに腰をぎしぎし曲げつつ、ようやく桂花は居間の扉にたどり着くことができた。が、
「貴殿が抱けと言ったのが悪いのであろうが!」
「誰が『俺を』抱けと言った!誰が!気色の悪い事を言うな!!」
「こちらとて貴殿のようなむさ苦しい男を抱くなどと死んでも願い下げだ!!」
「俺はただ戦も終わったのだから女でも抱いて発散すればいいと言っただけだ!」
「言い方がまぎらわしいですぞ!」
「あぁ!?」
桂花は危うく皿を落としそうになった。
がちゃんと嫌な予感を駆り立てる音がする。
桂花はたまらず、扉を足でばおんと蹴り開けた。
「何やってるんですか!いい歳した大人がみっともない!!」
胸倉掴み合った、魏国が誇る鬼の二将軍がぴたりと動きを止めた。
桂花はふん!と鼻を鳴らしてとどめの一言を突きつける。
「それ以上壊したら、今日の夕餉はここまでですよ!」
ふわん。
漂う香りに二人は顔を見合わせ、腹具合平和協定に賛成することを決めた。
魏国が誇る鬼の二将軍はとてもとても行儀良く、卓に着く。
ようやく桂花は自信作の炒め物と、飯を提供する準備を終えたのである。
「サァ、召し上がれ!」
くしゃくしゃに笑って、桂花うず高くよそった飯をどん!と差し出した。
言われるまでもなく、二人いっせいに箸を伸ばすのであった。
桂花自慢の得意料理は、言ってみれば豚肝臓とニラ炒めだ。
つぶしたばかりの新鮮な豚の肝臓と、畑の野菜をざっと炒めただけの料理である。
滋養のある肝臓とニラは疲れた身体にうってつけだが、ニラは意外と消化が良くないのを桂花はちゃんと理解していた。そのためニラはさっと茹でてからごく細かく包丁で叩いて繊維を断ち、更に同じく湯がいた細切り人参も加えてあった。また、豚の肝臓は生臭みも強く、火を通しすぎるとパサパサになって不味くなってしまう。桂花は血抜きした肝臓をニンニクと調味料に漬け込んで味をしっかりと染み込ませ、野菜を炒めてから最後に肝臓を加えざくざく炒め、半生の柔らかさで仕上げるのが常だった。濃い目に味を付け、ほんのりとろみを付ければ更に、飯に合う。もちろん残った臓物はしっかりと煮込んで、先ほど出した湯になっている。
そうしてできた料理を夏侯惇と張遼は無言で、もっしゃもっしゃとかきこむように食べる。
口一杯に飯と炒め物をほお張り、咀嚼する間も惜しいとばかりに飲み込んで、新たにまた、ほお張る。最初こそ取り皿に一度取り分けてから食べていたものの、二人は早々に直接大きな飯碗に炒め物を汁ごとざぶっとかけ、飯と共にわしわしとかきこむことになった。
桂花はそんな二人を嬉しそうに見ながら、空いた飯碗を差し出して要求するお代わりに答え、井戸で冷やしておいた冷たい茶を注ぐ。
桂花は実は笑顔の下でほんの少し驚いていた。
主人である夏侯惇はいつも子供のようにそれはそれはむしゃむしゃ気持ちよく食べるのは知っていた、だがこの客人、武人というには少し線の細い張遼という男の食べっぷりには目を見張るものがある。まるで何日も食べていない人間のようにとにかく飯を食べる、というよりかは必死に『取り戻している』という感じを受けた。
(これが戦というものなのですねェ、あァ、嫌だ嫌だ)
桂花はため息をついた。自ら戦地に赴いたことはないが、戻ってきた人間の様子からそこがどんなに酷いところかおおよそ想像がつこうというもの。
桂花はこっそりと、鼻をすすった。
(ほんに、戻ってきて来られてようございました)
さまざま絡み合う思いをぎゅッと込めて、差し出された飯碗に一際高く、飯を盛る。
飯桶をすっかり空にして、ようやく張遼は一息ついた。
ハッと我に返って見渡すと、とっくに食べ終えていたらしく茶をすする夏侯惇と目がばっちり合ってしまった。慌てて背筋を伸ばして口元を拭うも、もう遅い。
「や、これは…」
張遼は赤面し、呆れた二人の視線に居心地悪げにうつむくとぽつりと言い訳をした。
「三月も戦の鬼で居れば、腹くらい減る」
夏侯惇は弾かれたように笑い出した。
桂花も堪えきれぬ風情でとうとう噴出した。
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