またな。
老いてなお、
老いてなお、
老いてなお、
老いたから、
老いてこそ、
老いずとも、
最後の最後は、一人ぼっち、
胸の中にだけ、おまえが。
笛を、こしらえてみたのだ。
青竹を一本裏の林から抜いてきて、ちょうど肘から指先位の長さに切った。
それをほぼ等間隔にぼつぼつと穴を錐で開けて笛をこしらえてみたのだ。
平和になってしまうと、やることがなくていけない。
不謹慎にもそんなことをよく晴れた空につぶやいてみた。その後すぐに物騒なことをいってしまったと反省する。
後ほど、夏侯惇殿と大殿と落ち合う予定になっている。
手製の笛を手に、暇つぶしにぶらぶらと散歩に出てみることにした。
まだ大分約束には早いが、いいだろう。
平和なのだ、時間や命を争う時代ではない。どこに出かけるにも気を張る必要なぞど
こにもないのだ。
そう、理解はしている。だのにどうしてもどこまでも自分は戦に髄まで魅入られてしまっていて。
どうしても落ち着かなくて、癖のようなものだと自分に言い訳をしながら左手にいつもの青龍刀を携えてしまう。
右手に笛、左手に青龍刀。
さすがに甲冑は着ない着物姿で、昼も近い秋空の下へと出かけてみた。
私は秋の山に入ることにした。
家から少し歩いた所には小さな山がある。
手入れのされていない山で、下草も蔦もぼうぼうと気ままにしてあるその気楽さが気に入っていた。
もともとなにがしかの由緒のある名前がついた山らしいが、誰も知らないらしい。
近所の老人などは、茸や山菜を取りによく入るので、茸山茸山と呼んでいるようだ。なので私も適当に茸山と呼ぶことにしている。
枯れ葉をさりさりと踏みつけにして、登る。一足一足に力を籠めぬとずりずりと滑ってしまうため、私はぐっと顎を引いた。
最近ではこうした少しの運動でも息が切れるようになった。日に日に、すぐには気づかない程少しずつ、だが確実に身体は衰えている。
これは平和のせいではない。
老い、だ。
そういえば私はいくつになったのであったか。
数えるのを忘れていた。
彼がたしか今年ちょうど六十になるとぼやいていたから、おおよそ五十七、八のあた
りであろう。
五十八、意識してみればそれは身体が衰えるのも道理だというものだ。
そんな長く生きていられるとは思ってもみなかった、というのが正直なところでもある。
若いころの自分はただ武をもって自分を主張するしか手段のない、常に息苦しいような男だったと思う。
たとえば武将同士の交流や、酒宴などはすべて無駄なものだと考えていた。
肩を組んで酒を飲み、上司の愚痴を垂れ流し、連れ立って遊郭へと出かけていく。
私はきっと、眉をひそめ肩をそびやかした、取り澄ました格好でいただろう。
そうして他の武将からあいつは付き合いが悪い、お高くとまっていやぁがると陰口の的になっていたのだ。
ばかばかしい、そんなことばかりにしているから弱いのだ。
そうはっきり言ったことを思い出した。
当然のこと言われた相手は赤黒くなって怒り、剣を抜いた。
私もそのころいい加減このうそ臭い平和にうんざりしていたので、むしろ嬉々として応じた。
手加減をするとか、気絶させるに留めるとか、そういった配慮なぞなく、
完全に殺す気で、いた。
そこへ、
「おい!何をやっとるんだ馬鹿が!」
と、いきなり現れて怒鳴りつけたのが彼だった。
ずかずかと私たちに歩み寄って、素手でそれぞれの頭をごつりと手加減なく殴りつける。
そうしてすぐに、
「酒を飲むのも飲まんのも勝手!ぐだぐだうるさいと目玉を食らうぞ!」
と、ものすごい脅し文句を吐いた。さすがにこれには私もぐむとうめいて退くしかなかった。
だが内心、彼のことを馬鹿にしてもいたのだ。
彼の戦はどこまでも馬鹿正直で、いい軍師につければそれなりに力を発するものの、
個人の力量としては並の上、弓の技を含めてしまうと並がせいぜいだった。
「張遼、」
「なんですかな」
その、いかにも気遣っているとばかりの優しい声が不快だった。
そんなもので私を乱す彼が許せなくて、私はついそっけなく答えてしまう。
「ちょうどいい、お前、俺に稽古をつけてくれんか。お前らも、身の程知らずに陰口なんぞ叩いてないで、素直に教えを請うたらいいんだ」
彼はどこまでもおおらかで、おおざっぱで、おせっかいで、弱いくせに、弱いくせに、
毒を吐いた。
「貴殿なぞが私に何をしてくださるというのか、」
我ながら冷たい声だったことを覚えている。彼は怒りもせずにそうだなぁと酔って赤い顔をほころばせた。
「そしたら俺も、孟徳秘蔵の酒をちょろまかしてお前に振る舞ってやるさ」
なれなれしく人の肩を抱いてくる。片目のくせに、弱いくせに、
「張遼、」
「……あぁ、」
この人はひなたの匂いがする。
この人は、
頂上にたどり着くと、杖代わりにしていた棒きれをさっくりと土に立てて、すぐそば
の岩に腰を下ろす。
通ってきた森が開けて、すがすがしい風が抜けた。
セイセイとかすれた息が漏れるのを聞くと、あぁ歳をとったのだと感じ入る。
あのころのように、毎日戦をすることなど無くなった今、急速に身体は歳をとっていく。
昨日よりも今日、そして明日になれば当然だが確実に、歳をとる。
老いは清水、砂に染み入る清水だ。
髪の毛は日に日に白が黒を侵略し、
頬や首に深い皺が刻まれている、
座ったり立ったりするだけで一息が必要となった。
そしてこれはどちらかといえば矜持の問題でもあるが、男としての切っ先は最近俯きがちでもある。
(それは…困るのだ)
大変に、困っている。
歳をいくら重ねたとはいえ、まだ、色々と、やましいことをしたいのだ。
若い頃の時のように、夜が明けるまでとは言わぬ。だが、二人確かめ合って睦みあって、語らって。
それくらいは、したいのだ。
そういう、生き物じみたことを、したいのだ。
だから、いくらなんでもまだ悟りを開くには早すぎる、とも思うのだった。私如き人間は俗であってもよかろうとも思っている。
「あぁ、」
かの人に早く会いたい、
私はせっかく持ってきた笛も吹かずに、すがすがしい空の下で一人私は俯いた。
無性に、あの顔を見たくなる時がある。
この衝動は衰えることを知らない。
むしろ衰えて欲しくない。
常に青く静かに、それでも永くにともらせてありたい。
「元譲、」
声に出してぎこちなく発音して、確かめてみた。
この歳になってさえ、字を日の下で呼ぶのには抵抗がある。許されているのは夜だけだ。
別に誰に許しを請う話でもないのだが、そこはなぜか犯してはならない域に思う。
「…元譲、」
うつくしい名前だと思った。
彼の後姿が擦り切れることもなくいつも通りに景色の端に映りこむ。
そこで、笛を吹いてみることにする。せっかく持ってきたのだ。
脳裏の彼が形を成している間に、何かにとどめておきたい。
さっそく竹笛を口にあてがうと、吹き込む。
やはり手製ということもあって、音がすいすいと空気が漏れて、ひび割れている。
だが、誰に聞かせるものでもない。構うものか、少し、高揚していた。
陽光、
陽光、
月光、
月光、
季節、
つまらぬ草、
知らぬ鳥、
土くれ、
様様、
様様、
命そのもの、
全てを彼に、
つたなき笛でこの音で、少しでも結びついて欲しいと願う。
感謝を、
謝罪を、
あぁ、
どれだけか吹いた頃である。
それまで継続して吹いて髪の毛を揺らしていた風が張遼に当たる前に、何かにぶつかって流れが割れた。
「相変わらず悪い男よ、」
老いてなおしっかりとした、声が背中を強襲する。
突然のことに驚いて張遼は笛を取り落とした。
「殿、」
張遼は素早い動作で振り返ると永年の反射から礼をとる。
秋空の下、
魏国その礎、
覇王たる男、曹操の老いたる姿がそこにあった。
傍らには、当たり前のように彼の人、夏侯惇の姿もある。肩や首の辺りが少し痩せたように張遼には思われた。
汗を拭うその仕草から、足の悪い曹操を担いでこの坂道を上ってきたのだと容易に予想がつく。
若くもないのに、ご苦労なことだ、
ひっそりと、張遼は想い人にである片目に毒づいた。
「そのように女々しいまでに切ない情欲を奏でられては、落ちぬ者などおらぬだろう…はて、誰を想い吹いていたのか」
実際落とした人間がすぐ横にいるのを誰よりもようくわかった上で、口にする。
相も変わらず人が悪いと張遼の口元に苦い笑みが浮かぶ、もともと単純な性格の夏侯惇なぞは口をぱくぱくさせてがに股になってしまってい
た。
「情欲だけはとどまるところを知らぬようでして」
「その歳でか、」
「望まれては応えぬ訳にもいきますまい」
「はは、」
しらじらと述べる張遼に、夏侯惇は顔を二人から背けてぶわっと赤面した。ふん、と面白くもなさそうに吐き捨てる。
途端にからからと鮮やかに笑い出す曹操と、やれやれと意地悪く咎める張遼。
「爺がそのように頬を染められても、どれ肩を抱いてやろうという気分にはとんとなりませんな」
ふふん、私もたいがい性根の悪い男だと張遼は内心自嘲する。
「貴様ァ」
「惇」
いきり立った夏侯惇を、曹操は枯れ木のような細腕でいなし、尖った顎を反らせた。
「いつまで儂を立たせておく気だ、惇。さっさと席を設けよ」
すると、もちろんだとも孟徳、
と、あきれるほどの変わり身で、夏侯惇はせっせと朴の葉を敷き詰めて魏王のためにかいがいしく席を設け始めた。
なにしとるんだお前も集めろと強要する相手に、何時も通り張遼は辟易とするのであった。そして、辟易としつつもそれに従って手を貸す。
大事にその御身を年の割に太い腕で抱き上げると、見ている方が恥ずかしくなるほどにこまごまと気を遣いながら厚く敷き詰めた朴葉に下ろした。
魏王は肉の落ちて尖った顎を反らせ、空を見上げて一言。
「よき空よ、」
よき空であった。
天井知らずの青の秋空に、つられて二人も頭を上げる。
「そうだな…青いな、」
夏侯惇は、いつも通りに率直に述べた。彼に比喩はない。
「冬も近いのでしょうな」
張遼は、いつも通りに事実を述べた。彼に感想はない。
しばらく三人の老人は秋空を見上げてぼつぼつと繋がらない会話をして時間を過ごした。
それは、夕が空の端にたどり着くまで続けられた。
「老いましたな、」
結局、俺が孟徳を背負って張遼の屋敷にたどり着く頃にはすっかり夜になってしまっていた。少しも手も貸さないくせに、息を切らしている俺を哀れむように見る張遼。
その顔が少し腹が立つ類の笑顔だったので、遠慮無しに背中を叩いた。ぺすんと気の抜けるような音に、あぁこいつも痩せたのかと当たり前の事に気づいた。
俺は得意になって笑う。
「お前もな、誰だって老いる」
「殿も、」
だが、張遼はもう笑っていなかった。
殿も、
静かな声に、俺の浮き上がっていた気分は見る間に沼へと沈んでいく。
殿も、
俺は自信が無い。今、なんでもない顔が出来ているか自信が無い。
こいつの底知れない目が時折怖いのだ。
「随分と、お痩せになられた」
山から下りてすぐ、孟徳は眠った。一日のうち、最近ではほんの数時間しか起きていられないのだ。
食事もおれがすすめれば食べはするが、放っておけば何も取らずに二日も眠っていることもある。
俺が好きだった、秀でた美しい額は白く、青い血管が透ける程だ。
手首も骨が浮いて、筆を取るのにも苦労すると言っていた。
「そう、だな」
やっとのことでそれだけ言うと、俺は縁側に腰を下ろした。
秋らしく月が大きく輝いている。雲ひとつ無い。
張遼が隣に腰を下ろす。俺は横目に、裾が割れて驚くほど細くなった脛を目にしてしまった。ますますいたたまれない。うつむく。
「……、」
察したのか、用意してあった酒の乗った盆を手繰り寄せて、盃を俺に無言で突きつけてきた。小さな焼き物の盃は、俺がそろいで持ってきたものだ。三つ、俺と、張遼と、…孟徳の分だ。
盃には殆ど黒に近い紫が液体となって、とろりとしている。良く見れば底に粒が沈んでいるのが見て取れた。
俺は受け取って、一息に飲み干した。甘く、酸っぱい酒だ。大変に香りが強い。
「…うまいな、」
張遼は酒を水にはしない、丁寧に舐めるようにして飲む男だ。理由を聞けば、酒となるためにかかった研鑽に敬意を表しているのだとか。奴らしい。
そうしていつも通り、一口唇に乗せて漂いながら味わっている。
「昨年、殿がお漬けになられた…すぐりの酒。…あの日は随分と寒かった」
言われてはじめて思い出す。昨年の秋、孟徳がうまい酒が飲みたいと言い出して、将軍仲間総出ですぐりや苔桃、ぼけの実を集めさせられたことを。
その年のすぐりは出来が悪く、粒も小さく硬かった。何より、苦かった。
そのすぐりが今、こんなにも甘く膨らんで、黒い果実がとろけて、破れた皮から粒粒と種がこぼれて歯に触れる程になっている。
「そうだったな、中々見つからなくて…孟徳が駄々をこねて」
再度取り上げた盃には、不思議とすぐりの酒がまた入っている。張遼は不思議とこういうときに酷く気を回す奴で、その細やかさは嫌いではなかった。
「すぐりが酒になるのだから、人間など老いない筈もない」
どこか突き放したように早口に張遼は言って、空を見上げた。丸く、殆ど欠けの確認できない白月に、どこからか流れてきた細い雲がかかっている。
盃を持つ角度が変わって、らしくない速度で酒が細い喉へ吸い込まれていくのがわかる。
何をいらだってるんだ、こいつは。
口に出さないが、張遼は何かにいらだって、あせっているようだ。
「…そう、だな」
老いない筈もない。
俺はますますに深くへ行きそうになった。
が、
「殿は何度も、こう言ったではないか。迎えに来ると、それまで待てと」
その言葉にはっとなった。思わず顔を上げる。
張遼はそっぽを向いていた。
怒っているのだ。
俺はようやく気づく。
死は別れではない。
夕方まで遊んで家に帰って、また明日。
その程度のものだと常々曹操は言っていた。
「儂が死んだら…そのうち、気が向いて顔が見たくなったら迎えに来る。待っておれ」
こう、夏侯惇に言っていた。
それでもそんなに割り切れるものではない、それは張遼にも重々わかっている。
自分を預けた相手が丸ごといなくなる恐怖は、わかっているのだ。
だからこそ似合わぬ酒を用いての慰めなどもしてはみたが、あまりにも沈んでいる夏侯惇を見るうちに、
(私のことなぞどうでもよいのか)
と、女々しい悋気を起こしてしまったのである。
「わかってる、」
夏侯惇はそういった。晴れた声であった。
が、目頭は赤くにじんでいる。夏侯惇はそれを酒のせいにした。
「…わかってるさ、わかってる。だから…」
だから、と言った。
張遼は未だに顔を背けたままである。ここまでくると、引っ込みがつかなくなっているのだ。
「だから、俺も必ず迎えに来てやるから…待ってろ」
返答は、沈黙だった。
普段の彼らしくもない態度で、張遼はすぐりの種を庭に向けて吐き出した。
そして、
ほろほろと、笛を吹き始めた。
いつの間にか、雲がすっかり月を覆っている。
だが、またいつか月は現れるだろう、
それを二人ともわかっていた。
だから、笛を吹き、笛を聞いていた。
いつまでも、そうしていた。
またな。
それだけのことだ。
だがそれでも、言い知れぬ怖さを抱えている。
それが人間というもの。
それもよぅく、わかっていた。
だから、
「またな、」
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