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二人で冷たい茶をすすりながら思案した。
陽は高く、照り照りとした日差しに辟易した二人はひさしの下へ逃げるように滑り込み、ひとまず食事をすることにした。
桂花になにか作るように言うと、下女にあるまじきしかめっ面で、
「こんな暑い日位、少しはいたわって下さいよゥ」
とぶつくさ文句を言いながらとりあえず茶だけ出すと厨房へしぶしぶ引っ込んでいった。
夏の盛りである。
裸足で庭の敷石を踏もうものなら飛び上がるほどに熱い。黙ってじっとしていても汗をかく。
「あつい」
「あついな」
夏侯惇はさっさと縁側へとごろんと寝転んだ。天井が高く風通しがあり、少しは涼しい。張遼のほかにだれもいないのをいいことに、衿をくつろげて胸を大きく開いて風を入れた。
張遼はそんな夏侯惇を少し咎めるように睨んでから、そっと自分も衿を開く。彼としてもこの暑さが平気なわけではなかった。ため息。
「弱った、今度ばかりは弱った」
「そうか」
「俺も孟徳のわがままは今までうんざりするほど聞いて来たが、今度のはさすがに弱ったわ」
「…ふん」
張遼は、茶碗で隠しながら小さく鼻を鳴らして笑った。目ざとく夏侯惇が頭をもたげる。
「何を笑う」
「いや、別に」
うんざり、といいながらも夏侯惇の目尻が初孫を見る老人のように下がっているのを笑ったのであった。何を今更、この国の誰より主君のわがままを聞き入れているくせに、そのわがままの達成を誰より率先して他の全員に強要するくせに、
何を今更。私をいついかなる時差し置いておいて何を今更。
ああ暑いな、張遼は普段ないほどに乱暴に茶をあおる。
その『勅命』を夏侯惇と並んで言いつけられた時、思わずぽけんとほうけてしまった。あまりにもばかばかしいと瞬きすら忘れるのだとどこか新鮮な気持ちでいた。
そしてすぐ、隣の将軍が何か言ってはくれないかと期待をこめて、すがるように横を見た。
きらきらしていた。
きらきらと、似合わぬ光を目に入れて、いつもより太い声で、
「任せろ孟徳!さすがだ孟徳!」
と胸をたたいて請け負ってしまったのであった。
この時ほど張遼が夏侯惇を「この孟夏侯!」とファッキンな気持ちで殴りたくなったことはない。
そして今になって、ようやく今になって夏侯惇は後悔している。
当然である。できもしない、やったこともない、どうするかもわからないことを請け負ってしまったのだから。
「……で、どうする気だ」
完全に巻き込まれた格好の張遼の声には黒いものが含まれている。夏侯惇は暢気に縁側の板張りに腹ばいになって全身し場所を変えながら怠惰に冷たい場所を探していた。
「元譲」
普段であれば返事をせかすようなことはない。が、今日はした。
暑いからいらだっているのだ、夏侯惇は都合よく解釈した。なかなかに図太く図々しい男であることを最近張遼は知った。手遅れであった。
「さて、俺はどうもこういう頭を使うことは苦手でな」
「知っているとも」
危うく言いかけて飲み込んだ。そして眼に入った相手の姿に額に皺が寄る。
耳に小指を突っ込んでほじる。口は半開き。毛脛はむきだし。
張遼は即座に眼を閉じて遮断した。見なければ存在しないのと同じ、わざわざ幻滅をすることもあるまい。
「で、どうする」
眼を閉じたまま張遼は言った。隣の男が身体を起こす気配がする。眼を開ける前に太い汗ばんだ腕が肩を抱いてきた。
ぎょっとして眼を開いたそこには、驚く程近くに夏侯惇のにやけた顔があった。暑さのためか肌が艶をもっている。
落ち着けただ汗をかいているだけだ、ほら深呼吸だ文遠、加齢臭すらするかもしれぬ。
カッと瞳孔が開きかけた張遼をさっさと放り出すと、おおきな奥歯までのぞけるあくびを一つして、
「まぁ、まずは飯だ。腹が減っては何も浮かばん」
笑った。
桂花が盆を抱えて廊下を渡ってくるのが見えた。
盆の丼二つ、それに熱い湯を入れた瓶ひとつ。
桂花め手を抜きやがったな、夏侯惇はムスっと口をひん曲げた。大人気ないその姿に張遼は隠れてため息をついた。
「わたしゃ棘は抜いても手は抜きませんよぅ、失礼な」
長い付き合いの桂花はぷうっと膨れて乱暴に盆を縁側に下ろす。膨れるとますます丸いなと張遼は本人が聞いたら火を噴きそうなことを顔の裏側で思った。
「そうかそりゃ悪かった、」
腹筋を使って起き上がり、丼を覗き込む。
深緑色をしたの丼鉢に、細い麺が湯気を立てている。
汁はない。代わりに、
「ひき肉をたっぷり、にんにくもたっぷり、それから茄子をどっさり、多目のあぶらで塩と香辛料を利かせてじっくり炒めたんですよゥ。箸でかき混ぜて召し上がれ」
機嫌を直した桂花が説明した。なるほど、ひき肉と茄子を炒めたものが、じゅくじゅくとあぶらを煮えたたせて麺と絡んでいる。最後に仕上げとばかりに葱がみじんにかかっている。
「おおうまそうだ」
「本当に」
肉汁の弾ける匂い、にんにくの焦げる匂い、葱の青い匂い、喉を鳴らす。
「それは?」
傍らの瓶に眼をやり、訪ねながらも張遼の手は既に箸を握り丼を抱え込んでいる。夏侯惇はすでにあぶらをからめてつるつると麺をすすりこんでいた。
「鳥ガラの湯ですよゥ、あぶらはきれいに取ってさっぱりと、酸ッぱくしてあります。味を変えるのにかけて下さい」
桂花は説明だけ終えると、外の井戸を指差して立ち上がった。
「食器は水につけといて下さいナ、わたしゃ少し休みます」
ふらふらと左右に揺れながら、桂花は去っていった。
こんなにも暑いというのに、体力を失っているというのにあぶらをしっかり使った麺がうまく感じるというのを不思議に思っていた。
隣の夏侯惇はわしわしと麺を不器用な箸使いでかきこみ、茶で流し込む。額に汗、鼻の下にも汗、見るからに暑そうであったがおそらく自分もそう変わらない姿であるだろうと想像がつく。
少し冷めて、あぶらがしつっこくなってきた所に、きついくらいに酸っぱい湯は嬉しい。最後の一滴、ひき肉のひとかけら葱の一片すら残さず全て飲み干した。
「あーっ、満腹だ」
再び縁側へと背中を投げ出す。
満腹という字を、満福だと夏侯惇は十四まで勘違いしていたが、それもあながち間違いではないとぼんやり余韻のなかをたゆたっていた。
風が二人を撫でて、熱を奪って運び去っていく。涼しさに二人はため息をもらした。
「……で、どうするのだ」
余韻とか情緒とかいう言葉を知らんのか、夏侯惇は黙って野暮天フリルの脛を拳で軽く叩いた。
庭の隅で、鶏が元気良く跳ね回っている。
「二人には広報をしてもらいたい」
思いついちゃったもん!わがままやっちゃうもん!
曹操の笑顔は『わくわく』で、『にやにや』で、『きらきら』であった。
「こうほう?」
なめらかでない発音で聞き返す夏侯惇の顔は、『もうとく!』『もうとく!』『もうとく!』であった。
その顔、二人の顔を見比べた時張遼は既に、ああ、ああ、嫌だな、嫌ァな予感がするなぁと辟易しながらも諦めに入っていた。
「うむ、まぁ聞け」
「おうとも孟徳」
辟易した。が、仕方がない。
「ぴーあーるというヤツよ。これを二人にやってもらう。そして軍の増強を図る」
顎をさすりながら離す曹操の姿は見るからに悪役で、そのうちきっと膝に毛足のながい猫が乗るかもしれない。
それから長らく、張遼の見飽きた、というよりは魏軍全体が見飽きた「さすがだ孟徳!」の合いの手。
張遼の髭が切っ先が少し下がった。
『だってだって、儂の軍ッたらむさ苦しいんだもの。呉みたいに、可愛い娘がいないんだもの。でも甄姫は息子が協力を嫌がったし、
張コウはちょっとなんだか違うと思って。お主等ならうまくやれるとおもうんだけど』
というようなことを曹操は難しい言葉、大げさに抑揚のついた、身振り手振りをたっぷり加えた『演説』を行った。
そのたびに、やれさすがだ孟徳、任せろ孟徳である。
長い長い二人の掛け合いが終わると、
「お主等の実力を持ってすれば、100人はいけるであろうな。期待しておるぞ」
曹操は鼻歌を歌いながら、軽い足取りで出て行った。
「任せろ孟徳!」
ああ何度目であったろうか、この孟夏侯。殴ってやろうか。
なんだそんなにきらきらして。私と話す時には親父丸出しのくせに。なんだその眼のひかりは。くそ。
張遼はやさぐれた。
かくして、広報部長夏侯惇と、広報副部長張遼の魏軍増強PR計画が開始となった。
二人の了解の返事に上機嫌の曹操。
だが曹操は忘れていた。
それは二人が、種類は違うとはいうものの馬鹿であるということ。
考えに考えた上、二人は城から門まで都の中央を貫くように走った大通りに立った。
二人は袖か腕を抜くと諸肌に脱ぐ。靴を脱ぎ捨て素足になる。肌があらわになり、その男達が夏侯惇と張遼であることを抜きにして道行く誰もがが振り向いた。
この暑さである。地面から返ってくる照り返しから同じような格好をしている人間も珍しくはない。
それなのに何故眼を惹くのか。それはまず二人の体つきにある。
たくましい肩、武器を振り回す腕はもりもりとしている。
首のあたりの筋はびんと張ってみなぎっているのが遠目にもわかった。
腹筋はきれいな六分割。背中にはぴんと線が入って、余分なものがついているのを見ることができない。
そんな彫像のような肉体を持った男が二人、半裸で肩を組んでいる。
そりゃあ目立つ。
二人の肌の色も象牙色と褐色ときれいに対照的である。
そりゃあ目立つ。
そして二人は、旗を背負っていた。
旗。最上級の絹をふんだんに使い、四人がけの卓ほどあろうかという巨大な旗。金糸の縫い取りが日光にきらきらと光る。夏特有の強く土臭い風にあおられて踊る。
その旗には青龍が、鱗一枚一枚まで詳しく織り込まれていて、旗が風にあおられる度に本当に生きているように見えた。
目立つ。
大通り。
夏の日。
二人の肌からは白いひかりが漏れているようであった。気合いだとか、熱気だとか、あるいは覇気、そういうものがひかりとなって漏れ出ているのだ。
二人は旗を背負ったまま、城を目指して大通りを門から進軍し始めた。
たった二人である。だが二人のひかりから見て、紛れもなく進軍に見えた。
足並みは揃っている。揃いすぎるほどに揃っていて、そのずれのない動きだけで人の目を惹いた。
二人は道の終点、城を目指して進軍。汗が目に入ろうと、足の裏に小石が刺さろうと、風に旗が空気を巻き込んで暴れようと、進軍はとまらない。
足並みを揃え、腕を強く振り、眼はきっかと見開かれての進軍。
大通りを中ほどまで進軍していた二人は、静かに立ち止まった。
魏の誇る将軍二人である。町の民はひやかすこともできないが眼を離すこともできずに無言で見守っていた。続々と見物人が押し寄せてきて、
二人の行く手を阻むことは決してなく開けたままであったが、二人の後ろからは興味深げに大勢がついて進軍にくっついてきていた。
いつの間にか大軍勢である。ついなんとなく二人の後ろについてしまうと、背中の旗の青龍が睨みをきかせていて皆足並みを揃えてしまう。
大軍勢となった。
無言の大軍勢である。
滑稽だが恐ろしい。
その軍の先陣、二人が大きく息を吸い込んだ。胸郭が持ち上がり肺が大きく膨らんだのがわかる。
「魏ィーッ!」
「魏ィーッ!」
叫んだ。並大抵の声量ではない。もともと騒音渦巻く戦場で軍に指示を出す二人のこと、国の隅々まで行き届くような大声。
低く銅鑼を鳴らすような夏侯惇の声。
高く針を突き立てるような張遼の声。
鬼のような形相で、二人は叫んだ。
そして、
「………」
無言で振り返った。
ざりっ。
気圧され、民衆が一歩ひく。
そこに叩き込むように再び怒号が飛んだ。
「魏ィーッ!」
「魏ィーッ!」
ギー!と叫ぶ二人。二人は民衆へと手の平を差し出した。さん、はい。
民衆は隣の人間や前後の人間と顔を見合わせる。
どうする?
どうする?
え?
え?
やるの?
だって、
だってさ、
やっぱり?
やるの?
「……ぎ、ギーッ!」
長い沈黙の後、民衆が仕方なく続いた。
二人が満足そうにわらう。恐ろしい笑顔だった。
再び歩き出す。
進軍。
進軍。
足並みがそろう。不安そうに、俺たちはこれからどうなるのだろうかと疑問を顔に隠しもせず浮かべて歩く。
「魏ィーッ!」
「魏ィーッ!」
ところで代○木ゼミナールのCMをご存知だろうか。
そう、東大ヨゼミ!京大ヨゼミ!のあのCMだ。
「満腹!魏軍!就職!魏軍!」
「仕送り!嫁取り!子作り!魏軍!!」
「火計も!(YEAH−!)」
「奇襲も!(YEAH−!)」
「いつでも!ニコニコ!たのしい!魏軍!」
足を踏み鳴らし、拳を振り上げ、歌う。
暑い最中だというのに歌う。
「魏!」
「魏!」
「魏!」
「魏!」
今は無き懐かしきライダー。彼がまだバイクに乗っていた頃の適役、ショッカーさながら。
「満腹!魏軍!就職!魏軍!」
「仕送り!嫁取り!子作り!魏軍!!」
「火計も!(YEAH−!)」
「奇襲も!(YEAH−!)」
「いつでも!ニコニコ!たのしい!魏軍!」
「魏ィーッ!」
「魏ィーッ!」
「……ぎ、魏ィーッ!」
「魏ィーッ!」
「魏ィーッ!」
「…魏ィィーッッ!!」
その後、運悪く進軍に加わってしまった民衆は、熱射病や熱中症で脱落者を何名も出しながら、魏、魏と叫んで大通りを夏侯惇張遼に率いられることになった。
死屍累々。
数多の屍を乗り越えて、城へとたどり着くと。
「よし!」
汗だくの顔に、ひかる笑顔。満ち足りた笑顔。
最後までついてきた民衆の肩をよくやったなとぽんぽんと叩きながら、
それだけ言って、解散となった。
結局なんだったのか。
民衆は地面に崩れ伏しながら思った。
歩いているうち、当初の目的を忘れたんじゃァないか。
民衆は思ったが、なにぶん力尽きていたのでそのままとなった。
夕立の近い、湿り気のつよい冷えた風が、慰めに強く長く吹いた。
城壁から町を見下ろしたところ大量に転がる人間達に絶叫した曹操様。
次の日に二人を呼びつけてこんこんと説教をすることとなる。
しかし後に筋骨隆々としたむさ苦しい男性達の志願が相次ぐことになり、
「こうなる筈では、なかったのだがな…」
ほんのちょっぴりがっかりする曹操様でした。
憂さ晴らしにそれから一月、二人の休みを同じ日にしてやりませんでした。
広報は難しい。
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