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INDEX

心待ち。


歩く、
歩く歩く、
迎えが来たのだ、
私は向かう、
歩く、
そして、共に。
























魏の誇る大将軍、夏侯惇は逝った。
魏王曹操が逝ってから、わずか三月のことである。
眠るように、うすら微笑んで静かに逝った。
彼をあらわす言葉の多く、清廉、質素、その通り彼の墓には一振りの剣のみが入れられるとのこと。
らしい、らしいと皆は泣き笑いである。
まだ春も半ば、桜も散り終わって間もない時期である。
皆、喪に服して泣いては飲み、飲んでは泣いた。
悪く言うものはいなかった。勿論全員にくまなく好かれるなどということはないが、それでも喪中に表立って悪口を言われるほどに憎まれていたということはなかった。
夏侯惇というのはとにかく嫌いになりにくい人物であった。よく兄貴風をふかせる割にぼけぼけと抜けたことがあり、また武芸も秀でてはいたが抜きん出ていたわけでもなく、隻眼ということもあってとにかく人間の劣等感を刺激しない質の人間であったと思われる。
俗なところも多い男で、よく遊郭の不幸な境遇の女に岡惚れしては身請けしてそのまま逃げられ落ち込んでいる姿を多くが見ていた。
もてない割りに『いいお友達』はたくさんおり、喧嘩騒動騒ぎは日常茶飯事として常に傍ら、それを目当てにどんどん面白い人間だかが集まる、そんな男だった。
最初から真ん中に居る訳ではない、誰かの持ち込む風に巻き込まれ、いつの間にやらそのしんがり、責任を取らされる席に座ってしまっている、そんなことが殆どだ。
張遼はいつもどおり几帳面な足取りでひたひたと城の廊下を進んでいた。
彼が好きだ、
彼が好きだと、張遼は擦り切れるほどに考えている。
思うよりもはるかに自然ではない、自分からそうしようと思ったから、考えた。
彼が好きだと、
彼が・好きだと、
「俺ァあの人が一番好きだったよ、俺ら兵卒にも・随分よくしてくれたもんだ」
不意に後ろからそんな言葉が耳に届いた。
先程通り過ぎる際に見かけた、彼の死を悼んでいた髭の濃い男二人から聞こえたものだと判断する。
張遼は立ち止まらない、が、その几帳面な足取りがほんのわずか乱れた。

すきだった、
すきだった、
すきだった、

何故過去なのだ、不思議に思ったのである。
私は彼が好きだ、
彼は死んだ、
彼はいなくなった、
だからといって、どうして、過去になるのだ。
張遼にはどうしても理解が出来なかった。
現在進行形で、恋は続いている。
過去でもないし、完了でもない。
ただ対象が側に見えるところにないだけである。

彼が好きだ、
張遼は夏侯惇が好きだ好きだと強く考えた。
几帳面な歩調を取り戻し、長い長い廊下を背筋を伸ばして進む。
























廊下はとてもとても長く、人気があまりなかった。
それはもちろん今日が夏侯惇の葬式であり皆が涙にくれているからで、
こんな日に時間通り職務に向かおうとする人間には、現在のところ一度もすれ違っていない。
薄暗い廊下である。春の陽射しもあまり届かない。
彼は春はあまり好きでなかった、張遼は思い出した。
これは考えるよりもいくらか自然である。浮かんだといってもいい。
彼は春は余り好きでなかった。
何故であったか、それはまだ浮かんでこない。
張遼はまたほんの少々歩調を乱して、その理由を推測し始めた。


『俺は春は好かん、』
『ほう』
驚いたのを覚えている。あれはもう何年も前の春で、二人で午後の縁側で怠惰を働いていた時だと思う。
彼があまり何かをはっきり嫌いだというのは例のあの人の件くらいのもので、それ以外、たとえば食物等に関しては無頓着なほうだったからである。
『何故ですかな、』
勿論知りたくなって、尋ねた。理由が利きたかったからではない、彼を知りたかったからだ。
あの頃の私はそうやって知的好奇心に摩り替えた欲情を質問に歪ませてよくぶつけていたように思う。
『春は、駄目とは』
彼は顎を撫ぜた、硬い髭がざりっと音を立てていた。
『天気もいい、暖かい、なんだか、』
























なんだか死にたくなるじゃないか、
彼は早口に、そう言った。

























張遼は完全に立ち止まっていた自分に気づいた。
ただ片足を踏み出しかけて、そのままになっている。
うむと自分に命じて、体重を移動させ、歩き、進む。
それで、自分はどう答えたのであったかと、深いところまで探る。
執務室へ到着するまでになんとか思い出したかった。
『そのようなこと、軽々しく口にすべきではない』
あの時自分は珍しく強い口調で言ったのではなかったか。
普段私が少しでも死に歩み寄ると殴る蹴るをして自分へと引き戻しにかかる彼が、そんなことを言うのが腹立たしかったのだろう。
『そのようなこと、』
なおも言い募ろうとした私を、彼は静かに陽射しに肌を照らしながら言った。
『        』
なんだったろうか、
なんだったろうか、
あぁ、思い出せぬ。
仕方なく、張遼は立ち止まった。移動にかかる動力を頭に回す。

























『だって気持ちがいいだろうが』

























「馬鹿な、」
思わず声を発していた。薄暗い廊下はたじろぐことも無く諾々と続いて張遼の進行を待っている。
「馬鹿な、」
そんなはずは無いともう一度探ってみる。

『だって気持ちがいいだろうが』
『雨のじとじとする日に死ぬのも嫌だし、寒い寒いと死ぬのも、ぐずぐずに腐って死ぬのも嫌だ、夏を振り返って寂しく死ぬのも、嫌だ』
『はは、』
『俺とてそんな気持ちになる時もあるのだ』
『笑うか、』
『……張遼』
ずらずらと並べられた記憶に、張遼は薄い唇をきりりと噛んだ。灰色がかった血色が鮮やかに色をなす。
「望みどおりだ、元譲殿」
張遼はわざわざに字を呼んでみてから、少し辺りを見渡して、
「ふ」
進み始めた。
廊下はどこまでも厳粛に静かに、老いたる鬼将軍を迎え入れる。

























「ありゃぁ後追いだよ」
張遼の執務室のすぐ前、二人の男が座っていた。二人とも遠目から見ても随分に、酔っている。
夏侯惇の葬儀で振舞われた酒で、存分に酔っている。
「後追いたァなんだね」
小太りの男が盃を片手に尋ねると、鼻の大きな男は酒を竹筒からぐぶりと直接飲みながら後追いは後追いさねと、
「曹操様から、三月だぜ?見る見る白髪になって、お痩せになって、」
そう、大声を張った。小太りはそうかね、と気の無い様子でそう答える。
「そうともありゃあ後追い、もしかすると」
のってきた、のだろう。鼻の大きな男は更に大声を出した。
「もしかするとなんだね」
「呪いかも、しれんぜ」
呪い。
呪い。
その単語だけを廊下が拒絶したのか、男が思った以上に反響した。
「物騒だな」
小太りがにわかに周りを気にしだした。誰も居ない。
「曹操さまが、地獄からあの方を引っ張っていっちまったんだ」
酔っ払いの大胆さでがなり、床を叩く。
「いい加減にしないか」
小太りがたしなめる、が、鼻の大きな男が更に何事かまだ言おうと口を開けた。
くだらぬことを、
私は我慢ならなくなって口を開く。



























わたしは、おおごえをあげる。

「去れ」

おもったよりも、おおごえになる。
おそらく、いきどおっていたのだ。
かくじつに、わたしははらをたてている。
























柱の影にいて思索していた張遼に気づかずに話し込んでいた男達は、突然に現れ怒鳴る張遼に驚き、慌て、ほうほうの体で獣のごとく手をついて逃げ出した。
肩で息をしながら額に汗をかき、廊下と床に向けて切れ切れに説いた。

「呪いだと、呪いだと、馬鹿な、あれは、」
あれは、






『孟徳がな、』

春の陽射し、

『あれは正月に死にたいという』

酒でなく茶を二人で、

『一番めでたい時に死にたいそうだ、』

まだ硬い枝豆の緑をすった餡をまぶした、餅、

『あの偏屈め、こうも言った』

さくら、さくら、

『春になったら死にたくなるだろうから、迎えにくるとな』

うす青い空、天井の低い、

『張遼、』

着物から覗く、毛脛、

『…張遼、』

節節ごつごつとした、優しい手、
























『おまえは、いつに迎えに来ようか』


























張遼は執務室の椅子に腰掛けた。
扉を開け放したままのため、風がすいすいと自由に抜けて三割白い髪の毛を凪いでいく。
肩の上下が落ち着くのを待って、再び張遼は立ち戻る。

『私は秋がいいな』

問いにしばらく考えた後、こう答えたのが思い出された。

『秋か、何故だ』

この時たしか、彼も理由でなく張遼自身が知りたいからだといいと図々しく思ったこともあわせて浮かぶ。

『秋になれば、寂しくなりましょうからな。…待っていよう』

待つと、
待つと、
そう、答えたのだ。
























「馬鹿な、呪いなど…あれは、」

あれは祝いだ、

あれは祝いだとそう呟いて張遼は目を閉じた。

灼熱の夏を越えて、
長い夜に迎えに来てくれるのだと。






その時を、張遼は心待ちにしている。
再開の言祝ぎを、待つ。
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