由来 鬼の霍乱(遼惇)
朝、夏侯惇が目覚めると何かがおかしかった。
頭がぼう、とする。
足がふらつく。
喉が渇いて引き攣る。
節々がぎくしゃくする。
やけに身体が重たい。
変な汗がじんわり、滲む。
(…なんだ?孟徳の頭痛がうつったのか?)
立っていられないような頭痛によたよたと立ったばかりの寝台に腰を下ろす。
気付けば吐く息は火のように熱く、額に手を遣ればじっとりと脂汗が浮かんでいた。
とても朝議に出られる体調でないことは誰でも判断できる状態であるが、他人以上に自分にも厳しい夏侯惇がそんなことを許す筈がない。寝台に手を付くと思い切り体を押し上げて再び立ち上がろうと気を吐いた。
「うおァッ!?」
体を起こしたまでは良いが肝心の膝に全く力が入らず、その場に無様に転がってしまう。
したたかに額を床にぶつけ、ぐぬうううと唸りながら痛みにじたばたと足をばたつかせた。
「夏侯惇殿、いかがいたしたか」
「わぁ!?」
涼しい声が頭上から突然落ちる。
夏侯惇は海老のようにばおうんと跳ねて反った。
当然今度は、顎をぶつけた。
「張、遼」
「はい」
戦時でもないというのにきっちりと、一分の隙も無い華麗なる戦装束の張遼が夏侯惇を見下ろしていた。
「いかがなされた、夏侯惇殿」
跳ねて反った、海老のような夏侯惇の様子に構わず張遼は、手も貸さずにそのままの、まっすぐに立った、いつもの通りに再度問いかける。いかがじゃないだろと呟きながら夏侯惇もようやく自力で起き上がって、
「わからん」
と答えた。
「さようか」
張遼は変わらない。
「………」
「…………」
夏侯惇はああもうと喉の奥をぐるるると鳴らして頭を掻いた。随分汗を掻いてべっとりとしていて非常に気分が悪いがそれどころではない。
「まぁ、たいしたもてなしもできんが」
とりあえず、張遼に椅子を勧めた。
「本日の朝議は、殿の提案で中止になり申した。各将自己鍛錬に勤めよとのこと」
張遼は夏侯惇を見下ろして、はっきりとしてそう述べた。
大体にして張遼は口ごもるということはない、
張るような素晴らしい発声と流暢な発音で常に、清清としている。
たとえそれが君主のわがままで大切な朝議が中止になったという内容でもだ。
きっとこいつは「猫が寝転びました」でもこんな真面目な顔でそういうんだろうなぁ、
夏侯惇はぼんやりと思って小さく笑う。
「あぁ…そうか…ご苦労だったなわざわざ、」
眉一つ動かない張遼の涼しい顔を見ていたら、何だか身体が少しはひんやりしてきたようにも思われ、夏侯惇はそっと、今度は注意深く立ち上がった。ようやくうまくいく。
「夏侯惇殿、先程から何か様子がおかしいようだが」
「うん?」
「先程からではない、昨日の夕食の時点からおかしかったですな」
「そうか?」
そう言って思い出すように張遼はつるりと顎を撫でた。あの口髭もぴこんと上を向く。どこかかわいらしい。
「あぁ、昨日は米を残していましたな。いつもは三杯は食らうのに。それに茶をやたら口にしているのに何故か酒は一口も口にはしなかった、何度も何度もため息をついていた、箸も4度、落としていたし――」
遮る、手のひらを、出す。
「張遼、」
「なんですか」
「おまえなんでそんなに俺を見ていたんだ」
「あいしているからです」
「お前熱でも」
「熱があるのは貴殿であろう」
それもそうだ、
一旦飲み込んでから夏侯惇は、
おい、
腹から大声を出して取り乱した。
はい、と張遼は律儀に答えてから一言、
「接吻をしてもよろしいか」
生真面目に問いかけた。
今度こそ夏侯惇は全てを飲み込んで、沈黙。
張遼はまったく、まったくいつも通りのひんやりとした顔で夏侯惇の顔を眺めている。
「よろしいか、」
更にもう一度、問う。
いや待てちょっと待て――
今度も夏侯惇の唇は、主に逆らい重たいまま動かない。
それを勿論、張遼は肯定と取った。
「では、」
既に二人の間合いはきっちりと詰められている。逃げ場はない、死地だ。夏侯惇にとって。
推して参る、とは言わなかった。
それでも夏侯惇の脳裏には三文字が乱舞、
遼来来。
「ん、」
ひんやりと、冷たい。
水を含んでいたかのようだ。
張遼の唇に夏侯惇はそんなことを考える。
「んん、」
夏侯惇が思った通り細い舌が武人らしい大胆さで唇から滑り込んでくる。
食いしばった歯列は丁寧になぞられて、無理やりこじ開けようとはしてこない、
そんな所までどこまでも張遼であった。
息苦しさに身体をよじると、繊細な手が腕を掴んで離さない。
唇がどんどん貪る、侵食される。
酸素が足りない、苦しい。夏侯惇の眉間に皺が寄る。
「っは、あ」
途端、僅かだが唇同士の間に隙間が出来た。
慌てて空気を吸い込もうと夏侯惇が唇を開いたところで、
「ん・んん、ん゛ッ」
間髪入れずに舌が攻め入って来た。猛攻。
奥に縮こまっている舌を掬い上げると、手繰るように表面をすり合わせながら大胆に引き出して、自らの舌と、絡める。
口蓋をそろりと尖った、あの冷たい舌先が擽ると、ぞぞぞぞ、と脊髄が震えて堪らない。
味わうように張遼の目きゅ、と細まり、武人とは思えないすべらかな手の平が支えるように夏侯惇のわき腹に差し込まれた。肋骨を数えるように、ゆっくりと、撫でさする。
「ふ・ぁ゛っ」
ちゅぽん、
間の抜けた音と共に濡れた唇が離れ、唾液の糸が切れた頃には、最早夏侯惇は一人で立つことも出来ない状態になっていた。ひゅうひゅう、と喉を鳴らしながら荒い息をつき、ぐったりと水を含んだようになっている。
「夏侯惇殿、……元譲殿―――」
僅か、ほんの僅か頬を上気させて、張遼は囁いた。夏侯惇の赤い耳殻に犬歯を時折立て、舐めしゃぶりながら、囁く。あ、と夏侯惇の唇が微かにわなないた。
夏侯惇の腰には、戦装束越しにもわかる、熱源が押し当てられている。
張遼の腰にも、ほの温い質量が感じ取れた。
「貴殿の尻穴をいただいてもよろしいか」
夏侯惇は今でも、
「俺はあの時『駄目だ』って言ったんだ、とにかく俺はそう言ったんだ」
と言い張る。
張遼は張遼で、
「涙目になりながら私の袖を掴んで『駄目…』と見つめられて、退く事は出来ぬ」
と、普段通りに涼しい。
ともあれ二人、仲睦まじく次の日の朝議は揃って熱を出して寝込み、
訪れた曹操がその様子を見て、
『鬼の霍乱』
と言う格言を生み出した。
今日ではこの格言の由来を知る者は、誰も居ない。
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