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いびつなふたり。

「おう元気か、張遼」
「ああ、息災です、夏侯惇殿」
「……」
「いかがされましたかな」
「あ、いや…ところでな、ぶ、…文遠」
「なんですかな、夏侯惇殿」
「………」
「夏侯惇殿?」
「ええと、それでだな、文遠」
「はぁ」
「もう、うちに来て随分経つな」
「左様で」
「まだ、慣れんか」
「いいえ、おかげさまで」
「…………」
「………あの」
「………ぶ、ん、え、ん」
「………なにか?将軍」



















青竹の林の中を夏侯惇は歩いていた。風が心地いいくらいに少々強く吹く中で、顔と拳だけが熱を持っていた。
(ああ、またやってしまったわ、畜生め)
気づけば手近な木の幹を殴ってしまっていた。
(畜生め、あの野郎が)
よりにもよって、役職名で呼ばれるとは予想外であった。
魏には夏侯惇夏侯淵をはじめ、夏侯の姓を持つものは多い。
それを単に将軍と呼ぶ張遼。
(俺など興味がないということか。畜生)
張遼が魏に降ってから一月。一番多く言葉を交わしたのは自分ではなかろうかと夏侯惇は思っている。
まず人付き合いに対しても生活することに対しても積極的ではない相手になにくれとなく世話を焼き、不自由なく過ごさせるように尽力した。
時間を見つけては彼の屋敷を新しい服や珍しい食べ物を持って訪ね、一言でも長く話そうと心がけていたのだ。
(所詮俺の一人相撲だということか…フン、やっておれん)
落胆していた。
だがそれを夏侯惇は認めたくない。
何故自分が苛立ったのか、わからないふりをし続けた。
夏侯惇は知らない。
そういった行動を張遼が最も嫌っていることを。










灯りもつけていない、締め切った部屋には自分ひとりしかいない。
それを確認すると、張遼は手にしていた茶碗を壁に向かって投げた。
うるわしい彩色が細かく手作業で施された茶碗は土壁に衝突すると儚く砕け、壁と床に茶をぶちまける。
「………ああ、」
張遼の瞼には濁りが濃く滲んでいた。唾を吐こうとまでして思いとどまる。
自分はあくまで敗軍の将で、命を奪われるところを拾われたのであったと。
魏の将軍である夏侯惇が、自分に対してあのような、哀れむような態度をとるのも受け入れなければならないはずであった。
だが、屈辱であることに変わりはない。
「もう沢山だ、」
早く戦に出たい。張遼の願いは一つである。
真綿で首を絞めるとはよく言ったものだ。まさに今、じくじくと侵食されている。
息苦しさに喉が詰まり、窒息しそうだ。
戦に出れば沢山の人間が死ぬ。土地も痩せる。国も枯れて民も疲弊する。
自分だって無事でいられる確実な保証はない。
赤、赤、赤、ああ、赤にまみれて、赤をまとって!ああ!
死ぬかもしれない。
殺す。
殺す。
殺したい。
殺させてくれ。
あの戦場で、血風を胸に吸い込んで舞う。舞いたい。
もしかしたら、死ぬか。
死ぬかもしれない。
悪くない。らしい。よほどらしい。
「ああ、ああ、沢山だ」
死ぬ。
構わなかった。
握り締めていた手の平がぬるりと滑った。視界の端に赤いものが床に滑り落ちてゆくのが移る。
爪が手の平の皮膚を突き破るほどに力を入れていたのをようやく認識するに至った。
詰めていた息をゆるめる。
「哀れまれるのは、沢山だ」
呟く声はしわがれている。先程屈辱からひとしきり絶叫したばかり。
喉はひりひりと痛んだ。
「何故哀れまれなければならない、あのような、」
あのような片目に。
口に出してみて、背筋が震えた。
唇の端がつり上がる。乾燥してひび割れていたところがぱっくりと割れた。
目尻から涙がこぼれ、ひりつく頬に沁みながら顎へ。
かみ合わせた奥歯がぎちぎちと嫌な音を立てた。
「ふ、あの片目め…」
さぞ優越感を感じていることだろう。
床を拳で叩いた。
夏侯惇はもともと敵に突っ込むしか脳のない武将で、それでも中々の戦勝暦があるのはひとえに曹操以下優れた軍師の指揮によるものだと張遼には思われる。
ただ先頭で、大声を上げて大きく派手な動作で切り込む。怒号で煽る。それを見た兵も続く。それだけのこと。
だがそれも、片目を失うまでのこと。片目を喪ったのは、元張遼のいた軍つまり呂布軍との戦の最中。
あの片目は、自分の世話をまめまめしく行うことで、そのたびそのたびに優位であることを張遼に知らしめようとしているのだ、許せぬ。
なんと卑劣な。
「くそ…ッ」
張遼は泣いた。
茶碗のかけらが滲んで見えなくなるまで、張遼は泣いた。






















張遼の望みもしない一筋の光が、部屋に入り込んできた。
光だけでない。
顔も見たくない。
「よう…文遠」
白々しくも字で呼ばう声。吐き気がした。
手を差し伸べているつもりか。知っているのか。
手は上からしか伸べられない。私は決して手を伸ばさない。
「何かご用ですかな、将軍」
我ながらよくもこんな冷たい声を、丁寧な言葉に乗せて出せるものだと感心した。
だが入ってきた片目は気づかないのかそれともふりか、そのまま部屋に踏み込んでくる。
「こんな暗くして、身体がおかしくなるぞ。飯は食っているのか」
「ご用は」
今日は適当にあしらう余裕はない。
追い返す。
そうともこの際はっきりと決裂するのもいい。
哀れまれるよりずっといい。
怒らせてみるか。刀でも抜けばもうけものだ。斬る理由ができる。
ここに私の武器はないが、なに片目の一人、どうにでもなる。
まばたき。張遼の目が、潤む。激情にかられる時、激しい戦に赴く直前、よくこのように目が潤む癖があった。
「用は、ない…が」
片目は面食らったようで、頭を掻き始める。言葉のやりように困っているように見えた。
追撃する。
「あまりここには来ないでいただきたいですな」
口早に、言葉を連ねた。手の平の血液は服の尻になすり付けて隠匿した。
ほつれていた前髪を撫でつけ、切れていた唇を舌で濡らした。
「うん?何でだ」
気を悪くするということを知らんのか、それともまだ自分を懐柔できると思っているのか。
「私は貴殿と仲良くする気はない」
「だから、何でだ」
これだけ言っても怒る様子はない。ただ『不思議だ』という顔つきで顎をかいている。
「私に仲良くしてやっている気分はいかがか。優位に立ててさぞ気分がよろしいのでしょうな」

なかなか挑発にのってこない夏侯惇に痺れをきらし、立ち上がる。目は抜け目なく武器を探していた。
だが当の夏侯惇は木偶のまま、入り口に突っ立ったまま動く気配はない。勿論怒り出してこちらに掴みかかってくる様子もない。

沈黙。
こいつはもしかしたら本物の木偶かもしれないと張遼は舌打ちをした。隠す必要は感じなかった。
何か言え。全てを否定してやろうと身構える。頭はぎゅんぎゅんと回転して辛辣な言葉を山と用意する。


たっぷりかかって、夏侯惇がようやく発した言葉は、
「そうか。悪かったな」
単純にして簡潔な謝罪だった。
顎髭をさすり、一つきりの目はまっすぐに張遼の挑みかかるような視線を受け止めている。
「…悪かった、とは。それは、私を哀れんでいたのを認める気か」
「ああ。俺のどこかで『仲良くしてやってる』という気持ちがあったんだろう。認めよう、悪かったな」

拍子抜けするほどあっさりと認めた。
潔い。おかしな話だが張遼は初めて夏侯惇に好感を抱いた。

「これは正直なことだ。…だがこれでわかったであろう。私は人に哀れまれるのはうんざりなんだ」
「そうだな」
「ならば出ていかれるがいい。もう二度と、この」
この家に近づくな、そう言うはずだった。

「孟徳がな、お前を配下に加えられて酷く上機嫌で…あんなに孟徳を喜ばせた男に少しでも世話をしたかった…というのもある」
「はぁ」
呑まれてしまった。張遼は返事をしてしまったことを酷く後悔する。
「まぁ良いだろう。俺の無礼に非礼、思い上がり、纏めて許せ、仲良くしよう」
あっけらかんと笑って発せられた言葉はなんという傲慢。張遼の炎は再び燃え上がった。とうとう声を荒げる。
「戯言を!この期に及んで仲良くなどと!!」
「何、ただとは言わん。俺は弱いが『夏侯惇』だ。お前がこの国、この軍で『夏侯惇』と仲がいいと思われておくこと、損ではないだろう」
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てながら、こういう考え方が出来る男だとは思っても見なかったと内心夏侯惇に対する評価が上下を始める。

夏侯惇は笑う。
片目が笑うと表情筋が突っ張って、いびつな笑いだと張遼は思った。

「いいだろう。どうせ孟徳の下で働くんだ。俺はお前が孟徳の役に立つことを知っている。戦ったからな。完敗だ。お前は強い。土下座だってしよう。頼む、孟徳のために力を奮ってくれ」

その考え方は張遼の気に入った。主君の役に立つ。その評価基準は中々狂っていて、よい。
「ふん」
「それにだ。これで俺達が将来、幾千幾万の死線を越えて親友にでもなったらどうだ。それも面白かろう」
「有り得ぬ。私と貴殿は相容れぬからな」
「はは、お前のそのはいかいいえかしかないところ、なかなかいいな。俺は難しいのは性に合わん」
なかなかいい、格下の相手の発言に思わず張遼も笑う。

「せいぜい利用させてもらう。そのうち鍛錬にでもご一緒しよう…元譲殿」
















窓から、入り口から、隙間から橙の夕暮れが差し込む。
夏侯惇は笑う。
張遼も笑う。

いびつに、
どろどろとして、よくない笑いを二人浮かべている。
だがそれもなんとなく解けつつあった。
二人想いは同じ、
(まぁ、悪くない)




幾千幾万の死線を越えるまで果てしない。とりあえずに二人はまず第一歩を踏み出した。

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