湯浴み鬼二人 生還(遼と惇)
かの戦から魏国に降ってからまだ数日。
暦では春ではある、が、まだ風花が舞っている寒い日が続いていた。
夏侯惇に対して、さびさびとした様子で張遼はこう言った。
「戦にいない私は、屍も同様―――」
私は偏っているのです――。
およそ正気とは思えぬ、
そんな、気のふれた生き方しかできぬのです。
まだ若い鬼神はそう呟いて、細い目を寂しげに伏せた。
「私は、ただ戦いにしか生きられぬ男、―――ただ道具のように、扱うがよかろう」
こけた頬は僅か翳り。
青い血管を透かした瞼は窪んでいる。
言葉をのせた薄い唇は皮が所々剥けていた。
目の下にはくっきりと、青黒い隈がそこに。
ああこいつは傷ついている―――
夏侯惇はただそう思い、その硬い、豆の出来た手を出来るだけ、出来るだけやさしく自らの手のひらで包んだ。
「お前俺の家に来るか?小さな恥ずかしいようなあばら家だがお前一人程度なんということもない、それに下女の桂花は料理が得意でな、いや勿論俺は独りやもめだ、なに気兼ねすることもなかろう」
感情を読み取ろうと躍起になって夏侯惇は張遼の暗い瞳を覗く。何も見えない。
いつになく必死に夏侯惇はそう一息に言い、それからすぐに気恥ずかしさを覚えたのか一際大声で、おうそうしよう、と言った、というか咆えた。そうしてすぐさま張遼の腕と張遼の馬の手綱を掴むと、
「さあ来い、」
と引きずるように家へと歩き出した。張遼はその面のごとき表情を崩しもせずにただついて歩く。
馬も当然、首をうつくしい弓なりにしてついて歩く。
「まずは休め、そんで寝ろ、起きたら飯を食えばいい」
「……世話をかける」
ぶっきらぼうで、率直な言葉は微かだが響いた。水面に小石を投げたように。
さざなみは、次第に広がっていく。
夏侯惇の家は彼の位から見てかなり小さい。
垣根を越えれば母屋に離れ、そして手入れの行き届いた畑。それだけである。
張遼は立ち止まり、視界に収まるその全てきりの屋敷をぼんやりと眺めた。
その視線に気付いた夏侯惇は決まり悪げに鼻を鳴らして手綱をぱたぱたと鳴らして見せ、
「だから小さいと言っただろうが」
と言った。
そして夏侯惇は母屋に向かって大声で、桂花ァ、と怒鳴った。
すぐさま、はァいただ今ァ、とのんびりした女の声がして、ばたばたやかましい足音と共に、
「お帰りなさいましだんな様、アレ、今日は殿様じゃあないんですか」
と、背の低い色黒の女が現われた。張遼にとって女とは絹に埋れて歌うか舞うかの印象しかなかったために、そんな大声を出す女を見たことがなくて、思わず不躾なまでにまじまじと見つめてしまう。
そんな張遼に現われた女はアレ嫌ですよゥ、と前歯を見せて笑って、
「そんなに見たら穴が開いちまいますよ、お客さま」
と、湯に浸していたのかほくほく湯気を上げる手ぬぐいを張遼に差し出した。
手ぬぐいを受け取ったまま張遼はさてどうしたものかと逡巡し、夏侯惇を見やれば、
「まあまずは顔を拭け、」
と笑って自らも受け取った手ぬぐいで顔と首筋をぬぐっている。張遼も小さくうなづいて倣う。
顔を熱い手ぬぐいで拭うのは思いのほか心地の良いもので、ほう、と二人揃ってため息をついた。
これまた二人揃って何気なくその手ぬぐいを見やれば、驚く程見事に真っ黒になっており夏侯惇は、
「汚いなお前、」
と言い出した。しかし夏侯惇の手ぬぐいだって五十歩百歩の汚さである、流石に張遼も反射的に、
「貴方もであろう」
と言い返してしまった。
「お二方ともどっちも汚い!まずは湯を使って下さいナ、せっかく拭き掃除が終わったんですから」
そうして二人そろって桂花に身包み剥がされ、湯殿に放り込まれることになった。
そういうことになった。
「おい、もっと詰めろ」
「無理です」
大の大人の男二人、木組の湯船にみっちりと収納されている。湯に浸かっているというよりは、むしろ二人の隙間に湯を注いだ状態である。
「でな、張遼」
「はい、」
「桂花な、」
「はい」
「あれで料理は上手い、」
「さようですか」
「あぁ」
密着しているのにも関わらず訪れた沈黙に気まずさしきり、夏侯惇は額を拭うと会話を試みた。
張遼も張遼で、流石にここまで世話になっている意識もあるので、なんとか返事をよこす、が、
生来の気性故、残るのは更なる沈黙であった。
ぴた、
ぴたん。
水滴の落ちる音が、滑稽なほど響いた。
「それでな張遼、」
「は、はい」
突然また、夏侯惇は会話を試みた。
張遼も今度こそと意気込んで、語気を強めて返事をよこした。
そこまで言って、夏侯惇は話題を用意していないこと、致命的な事柄に気付いた。
や、これはいかんと夏侯惇は焦ってぐるぐる見渡して、漂う夕餉の香りにとにかく、
「お前嫌いな食べ物はあるのか、」
「俺は柿が苦手でな、」
と、とにかく言った。
ぴ、
水滴も、一瞬息を飲んだように跳ねるのをやめたようだった。
「ふ、」
ふ、ふふ、
張遼は笑った。
ほんの数日前まで戦で命のやり取りをしていた、
命一つを共にただ、斬って、斬って、殺して、奪って、
ただ、奪っていた自分が今風呂に入って食べ物の好き嫌いを話している―――
たまらなくおかしくて、
おかしくて、
「 」
涙が、
ぴた、
ぴたん。
涙が。
「俺はいつでもな、こうして戦から帰ってきて飯を食って、寝て、そうしている時に、ああ生きてると、そう、思うんだ」
生々しい紫の傷が浮かぶ肩、張遼の肩にその湯よりも熱い手のひらをそっとおいて夏侯惇は、静かにそう言った。
「生きて帰ってきたな、張遼」
張遼はただ、鼻をずず、とすすって、
「そのようですな、」
とだけ、述べた。
遠くで桂花が、だんな様方、寝てるんじゃァないでしょうね、溺れちまいますよゥ―――そう、叫んでいる。
また二人、笑った。
すっかり腹を減らして二人、身体を拭くのもおろそかに食卓へと急ぐことになる。
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