寝過ごし鬼
ことん、
ことん、
ことん、
(ああ側に、誰かが生きている)
ことん、
ことん、
ことん、
誰かが鬼の頭をそっと、抱いてくれました。
頭の中の歯車の軋みがすっと晴れて、かみ締めた奥歯も解けました。
(ああ、)
沢山の人を殺し、奪い、憎しみを生み出してきた鬼を、
恐れずに、慈しみをこめて、抱いてくれました。
そうして鬼はまた、目を開き足を踏み出すことが、できるのでした。
張遼は、驚きを隠せないでいた。
ここ数年常に自分を苛んでいたあの、めまいと頭痛、だるさが跡形も無く消えている。
視界もこころなしか輪郭をはっきりと鮮やかで、薄くだが彩りも見ることができた。
寝台の上でしばし一人で、ぼんやりと天井を見上げた。
ほのかにどこかからか、茶の香りがする。
どこかからか、
「わぁ!?」
大声を上げる、腹筋を使い、バネ仕掛けのように寝台から跳ね起きる。
猛烈に、焦っていた。
そうともここは自分の家やましては戦場ではない、
夏侯惇の家であることを思い出し、張遼は猛烈に焦っていた。
今は空の冷えた寝台が、如実に本来の主がすでに起床をとっくに済ませたことを告げている。
窓の外は晴れ渡り、雪面がちくちくする程に陽光を弾いて輝いているのが見えた。
「いかん!」
一声、
まさにあちらへこちらへ右往左往しながら、寝巻きのままではとにかくいけないと無言で、張遼はばっさばっさ高速で着替えを始めた。
(まさか、気配を感じることすらできず熟睡するとは…初めてだな、このようなことは)
張遼は頭を総動員して記憶の底をさらってみるが、この数年、人に起こされたり、人よりも遅く起きたことはなかった。
いつだって頭痛や悪夢に、追い立てられるように、半ば無理矢理に、目を覚ます。
人に起こされたり、人より遅く起きたことはなかったのに、
そう、呟くと困惑に張遼は唇をひん曲げた。そうとも、繰り返す。
だがどんなに繰り返そうが今、現に張遼は、泊めて貰っている身分でその屋敷の主人よりも、寝坊をしている。
(あの夢が、いけないのだ)
誰に言うでもなく、言い訳をした。
とても温かで、自分を溶かす程甘やかし、優しく、慈しむ、夢。
それは今までの悪夢以上に、ある意味、張遼にとっては脅威でもある。
自分の中に、そういった、甘えを求める部分があるというのは、武人として進んで知りたくはない事実であったからである。
寝台横にあった――おそらく主人が気を利かせて置いたであろう竹筒を取り上げ、ここには居ない相手にすまなさを籠めて目線で一礼し、栓を抜くと一口。
「っ」
驚く程中身は冷たかった。竹筒には水滴が浮かんでいないことからまだ置かれて間もないことを確認し、少々であるが肩の力を抜いて張遼はふッと息をついて安堵する。
中身は水ではあったが、柚子の皮と果汁が加えてあるようで口の中にきつ過ぎない香りがしゅっと広がり、喉を始点として冷たさが一挙に体内を巡る感覚にぶるっと身震いをして、ため息。
その水が体全体に行き渡ると、準備がすっかりすんだという心持になり、張遼は自分の頬を手の平でぱんぱんと叩く。
目覚めて一番に含む初めの水分としてはこれ以上ない程の効果を上げ、竹筒を手にしたまま張遼は部屋を後にした。
部屋を出ると、我先にと冷たい張り詰めた空気が張遼の身体にしがみついてくる。うッと思わず首をすくめ、白い息をついた。
急いで居間へと向かう廊下は、よく見れば床板が濡れて色味が濃くなっている。つまり既に桂花は廊下の拭き掃除まで済ませているということである。その事実に更に焦りを増加させ、張遼はこれはますますいかんと冷や汗をかきながら足を速めた。
「あぁ、張遼様ァおはようございますよゥ、よッく眠れましたか?」
張遼が居間に足を踏み入れるなり、桂花のまぁるい、日焼けした笑顔が出迎えた。かんかんとした、少々野暮ったい着物の桃色と、寒さ予防ので昨日以上に太って見える。台所仕事で濡れた手を手ぬぐいで拭きながらばたばた近寄ってきて、頭を下げる。
「や、その、」
挨拶が先か、寝坊の侘びが先か、それとも桂花の質問に答えるのが先か、張遼はつい一瞬目を伏せて、考え込んでしまう。
そんな慎重な張遼の流儀に生来のせっかちな桂花が付き合う筈も無く、すぐに食卓の上に用意してあったと見える洗いざらしの真っ白な綿の手ぬぐいと、小さな手の平大の手鏡を押し付けた。
「はいはいまずは顔を洗って来て下さいナ、それから、この家にゃ鏡は有りませンからね、私ので恐縮ですがこれを使って下さいよゥ。そしたら、だんな様もそろそろ戻ってくる頃ですからね、ご飯にしますよゥ」
桂花の言葉の一斉射撃を受けた張遼は、手ぬぐいを抱いて、結局詫びも挨拶もすることができずに外の井戸へと向かうのでした。
外はずいぶんといい天気であった。乾いた空気が袖口や襟元から滑り込んでくるので首をひゃっとすくめる。
身を切るような冷たい風の中、勝手口のすぐ横に井戸はあった。側には盥に水が既に上げてあり、張遼はありがたくそれを使って顔を洗うことにした。
「……おお、ぬるい」
指先を水に恐る恐る突っ込んでみると、予想以上に水は温まっていた。
どうやら桂花か夏侯惇が冷たい井戸水を張遼のために太陽に当てて温くしておいてくれたのだろう。
気遣いにぺこりと律儀に盥へ一礼し、袖をぐっとまくって手を突っ込んだ。
さて、顔を洗うとなると手の平で器を作って水をすくうしかないのだが、これが張遼はどうにも不得手であった。水の半分は指の隙間からぼたぼたこぼしてしまうし、袖口や襟も濡らしてしまう。
今日が例外になるはずもなく、顔を洗い終わる頃には案の定すっかりびしょびしょになってしまった。
「しまった、借り物であった」
濡らしてしまった夏侯惇の着物にどうしたものかと頭を抱えながら、借りた手ぬぐいに顔を埋める。日なたのほこりくささ酷く懐かしく思われ、張遼は広くもない夏侯惇の家の庭をぐるり見渡した。
本当に魏の誇る将軍の家とは思えない。昨日から見た使用人は桂花ただ一人だし、さして広くも無い庭は護衛や見張りすらおらず、数羽の鶏が忙しく雑草を食んでいるだけ。
もしや魏の将軍の待遇というのはあまり良くないのだろうかと、ふと張遼は借りた着物の袖口をしげしげと見つめてしまった。ほつれて糸が出ている。
「おい、」
後ろから突然声をかけられて、張遼は慌てて振り返った。これも昨日までの張遼からは到底考えられないことである。今までは戦平常関係なく人、気配、大気、あたり全てに見えないごくごく細い糸を巡らし、感じ取るように、神経を尖らせていたのだ。
「よく眠れたようだな、張遼」
布の着物一枚、具足すら付けていない上背中にはご丁寧に竹籠を背負った民そのままの格好で、夏侯惇は笑っていた。
「今朝は大変に失礼致した、泊めていただいた身分で、寝過ごすなどと…」
恐縮しきり、張遼は頭を下げて謝った。夏侯惇はそんなかしこまった張遼を首に巻いた手ぬぐいで汗をぬぐいながら、
「そんなに謝ることは無かろう、それより見ろ」
軽く笑い飛ばすと籠をどっこいしょと地面に下ろし、中を見るよう張遼に言った。
「?は、はぁ…」
軽く子供が入れそうな程の大きさの籠である。張遼は腰をかがめると促されるままに中身を覗き込んだ。
「どうだ、すごいだろう」
夏侯惇は中に手を入れ、得意げに泥だらけの小さな塊をいくつも取り出して張遼に見せた。
「……これはなんですかな、木の…根?」
恐る恐る答えた張遼に、あんぐりと顎を落として夏侯惇、
「お前、竹の子もしらんのか。そうか、しらんのか……フン、竹の…生えてきたばかりのところだ、これが育って裏の竹林になる」
少々驚きに片眉を跳ね上げ、ウンと唸って籠に竹の子を戻し、籠を持ち上げた。
「まぁいい、どうせ今朝食わせようと思っていたところだ。おい、もう顔を洗ったのならこれを桂花に届けておけ。俺は脚を洗ってから戻る」
そのまま籠を竹の子を眺めていた張遼に押し付け、さっさと張遼に背中を向けると井戸に桶を下ろし、水を汲みにかかってしまう。
「………はぁ、」
行きは手ぬぐい、帰りは竹の子。
どちらにせよ、何かを押し付けられる張遼であった。
桂花が獅子奮迅に立ち回っているであろう厨房から、いつの間にか空腹には刺激の強すぎるよい香りが漂っている。
食卓につくと、桂花が先程よりもつやつやした笑顔で張遼を出迎えた。
どうやら本日の朝食が会心の出来であることが張遼にも伝わり、ほんのわずかではあるが硬い張遼の頬にも、どうにか、笑み、のようなものが浮かぶ。
先程の籠を見せると桂花のその笑顔はますます大きくなって、こりゃぁすごい、と手を叩いて歓声を上げた。
「竹の子ってのは、地面から生える前、ちょうど朝一がいっちばん柔らかくて、おいしいものなんですよゥ」
自分の上半身ほどもある籠をしがみつくようにして持ち上げ、弾んだ足取りで厨房へと運び入れていく桂花の様子を見送り、張遼はきちんと椅子に座りなおした。
「腹が減ったな、おい桂花、まだできんのか」
夏侯惇は濡れたままの足をぺたぺたさせながら、居間へ入ってくるなり大声で呼びかけた。張遼の正面の椅子にどっかりと腰を下ろして、背もたれに深く腰掛ける。
「あい、あい、おまたせしました。たんと召し上がって下さいよゥ」
転がるように桂花が大きな盆を掲げて厨房から現れた。重みに腰が曲がっている。
「後で先程の竹の子が出ますんで、まずはこっちをどうぞ」
どん、どん、と二人の前に盆から両手の平で作る程の大きな木の椀を置いていく。中には飯は少量。
飯には塩もみの大根の葉と湯がいたほうれん草を刻んで混ぜ込んであり、量を増やしてある。
張遼はまさか飯のみだろうかとにわかに不安になる。が、桂花が食卓の真ん中に、これまた盥ほどもあるすり鉢が、どかんと乗せた。
「芳飯、と言いましてね、このかけ汁をたっぷりかけて食べるんです」
玉杓子で桂花が鉢をたっぱんたっぱんと大きく、空気を混ぜるようにかき混ぜる。
桂花自慢のかけ汁は、まずたっぷりの鳥の出汁を鍋に取り、酒を加える。しかし決してぐらりとは沸かさない、そこに割りほぐして溶いた卵を沢山に注ぐ。
沸騰させないままそのままに、ゆるゆると熱を加えていくと、固まらずに全体に卵が行き渡って、出汁が薄く曇る。味付けは塩。
最後に、夏侯惇が近所でしとめてきた鴨を、皮から鍋で煎り付けてぱりっとさせたものを、甘辛く味付けたものを賽の目に切って、別の小鉢によそう。
ここでかけ汁に混ぜ込むと、せっかくぱりぱりと香ばしく焼けた皮が生返ってしまうため、かけ汁をかける直前に鴨肉を飯に乗せるのがいいと桂花は説明した。
大根を塩で軽く圧したものに、柚子を絞った香の物を添えながら、自信満々に笑う。
「さ、ご飯はたっくさんありますからね、一度に沢山よそうのでなく、何度もおかわりするのがいいです」
―――召し上がれ、
香ばしい香りと、空腹、
二人は言われるでもなく同時に木の椀を桂花に向けて、差し出すのであった。
張遼には朝、このように落ち着いて食事をした記憶がほとんど無い。
このように香りで空腹が促進される感覚も新鮮で、浅ましいような気恥ずかしいような。
複雑な気持ちであった。
昨日はまだ、体がそういった滋養ある食物を欲していたから納得もいった。
だが今日は、昨日たらふく食べ、満ち足りた直後だというのに何故こんなにも腹が減るのか。
そして何故、目の前で夏侯惇将軍がむしゃむしゃと気持ちのいい食べっぷりを見るだけでこちらまで、食欲が湧いてくるのか。
張遼には本当に、不思議でならなかった。
もちろんその間も律儀に、箸や口は動いている。
残念なことに、表情は変わりがあまり、なかった。
鴨肉はかみ締めるたびにぎゅっと野生のさらりとした脂が香り、そこに卵のまろみが広がる。
だらしなくなりがちな後味に青物がしんがりを引き受け、あくまでさっぱりとさわやかであった。
二人口周りを汚しながら、何度も、何度も、おかわりをした。
二人が満足する寸前に、飯桶が空になってしまった。
夏侯惇が中途半端な腹具合に不満の声を上げる寸前に、桂花が全てお見通しだとばかりに、平皿に先程の竹の子をざっと皮を剥いただけに、豆皿に味噌と塩を添えたものをよそって現れた。
緑の皿で、真っ白な肌、端が薄く黄色に色づいた、乱切りの竹の子がざっくりと映えている。手盛りの味噌をつけて食べるよう、桂花は言って、茶を用意した。
「竹のな、地面に出てくる前が一番うまいんだと。そう孟徳が言っていたのを思い出したんだ。確かに大きくなると渋くていかん」
まず、張遼に見せるように夏侯惇が竹の子をじかに摘むと、その白肌鮮やかな端にちょいと、味噌をつけた。
口に運ぶと、さくさくと軽い音を立てて、味わう。夏侯惇の険しい目尻が下がって、いかにもうまそうに、張遼には見える。
自分もおそるおそる手を伸ばし――、(勿論箸である。やはり手づかみというわけにもいくまい)頬張る。
「む、」
若々しいというか、青々としたというか、なんとも形容しがたい味だと、張遼は思った。
軽い歯ざわりなのが好ましいが、正直、そこまでうまいとも思えなかった、が、
「どうだ、うまいだろう」
と、自慢げに自分を覗き込んでくる夏侯惇の顔を見てしまったら、もうそれでたとえようもなくうまい物に思えてしまうから不思議だ。
何より自分のために、早く起きて山に出てくれたというその過程そのものが、嬉しく感じられた。
「…初めて食べましたが、うまいですな」
そう答えると、そうかそうかと単純な程に喜ぶ夏侯惇に、苦笑にも似た、笑顔がこぼれた。
そうしてまた、竹の子に箸を伸ばした。
「おう、そうだ、今日孟徳がな、お前を妓楼に連れて行くそうだ」
「は」
「鬼将軍がどのように女を食らうのか、大層楽しみにしていたぞ」
「え、その…それは、困りますな」
視線をそらし、ふっと俯いてしまった張遼に、眉をひそめる夏侯惇。
まさか、と呟くと、真剣に、
「………まさかおまえ、男食らいか」
と、尋ねた。
張遼は、豆皿の塩を一掴み夏侯惇の顔目掛けて、投げつけた。
「目が! 目 が ぁ あ あ あ あ あ あ 」
生粋の武人を辱めてはいけない―――、
夏侯惇は涙を拭いながらそう、学習した。
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