ある日淵のもとに鬼が来ました。
惇兄、今日はどうすっか。
そうだな淵、どうするかな。
惇兄とならどこだっていいぜ、俺。
俺もだ淵、どこだっていい。
へへ、なんか照れるな、従兄弟同士で。
…そうだな。
へへへ、
ふっ…
あるところに、とても仲の良い従兄弟がおりました。
惇と淵、二人は、とても仲良しで、二人同じ乳母に育てられ、同じ教師に学問を習い、同じ狩人に
弓を教わり、同じ兵士に剣を叩き込まれ、
そうして二人、今同じ君主につかえています。
夏侯惇と夏侯淵、名実共に曹魏が誇る仲良し従兄弟であります。
惇が厳しく兵に指導すると、淵が現れて場を和ませ、
淵が羽目をはずしすぎると惇が現れて引き締める。
二人はいつも、助けあい、支えあっておりました。
そんな折、淵の元に一人の男が訪れます。
「張文遠、ここにあり!」
重力を無視して天を目指す髭、狐の如き吊り上ったまなじり。
手指をぴしりと伸ばした、役者じみた独特の立ち居振る舞い。
戦時でもないというのに見事な装飾を施した華麗なる戦装束を隙無く身につけて。
大声で、凛として名乗りを上げる、合肥の鬼神、張遼がそこにおりました。
穏やかな春の日差しにふさわしくない、武器を構えた不穏な男がおりました。
張文遠が、そこに。
淵は困ったように、いえ実際困っていましたが、とにかく周りを見渡します。
庭の立派な桃の古木から、ほろほろと花弁がこぼるるだけ、人の姿は見えませんでした。
鮭をくわえた熊の置物のように、弓を持ったまま呆然と、淵は立ち尽くしておりました。
「えー…えーと、なんか用か?」
とりあえず淵は眉を下げた顔で尋ねました。基本的に淵は優しいのでした。
「夏侯惇殿の事だ」
きっぱりと背筋を伸ばして宣言する張遼に、にわかに淵は慌て出します。なにせ張遼の表情は面のようにまったく感情が読み取れないのですから、もしや惇に何事かあったのではないか、もしや怪我でもしたのじゃないのか、そう思うと不安で不安で仕方がなくなるのでした。
「惇兄が!?お前、惇兄になんかあったのかよ!?」
淵は自分よりちょっと高い位置にある胸を掴むと一生懸命ゆさぶり、事の次第を確かめようと声を荒げます。
「あったというか、した、という方が…正しいであろうな」
涼しい顔で張遼は答えます、その答え方がなんとも涼しげ、事も無げであったので淵はますます苛立って、
「したぁああ!?お前、惇兄になんかしたのかよ!?言え!言えったら」
こンの野郎ー!と顔を真っ赤にして大声で怒鳴りました。
すると、張遼も張遼で大声を出します。
「恋を!」
「あぁ?」
「恋をしたのだ!!」
「はぁあ?」
「夏侯惇殿に、恋をしたのだッ!!」
こいを。
こいを。
こ い を 。
外なのになぜかわぁんと淵には、その部分だけ反響がかかっていたように思われました。
淵はすっかりまっしろになってその場に座り込み、縋るように張遼の装束にしがみつきます。
祈りをこめておそるおそる張遼の顔を覗き込み、
「……なんつった?な、もっかい、」
と、もう一度だけたずねました。
庭の桃の古木が、満開の花の重みにたえかねしんなりと枝を下げております。
鳥もちぃちくさえずっています。
うららかな、良い天気でした。
「私、張文遠は、夏侯元譲殿に恋を、劣情を催していると。……性的な意味で」
せいてきないみで。
せいてきないみで。
せ い て き な い み で 。
先程より明らかに悪くなった状況に、淵はそうかようぅと力なく呟いて、
「ま、とりあえず上がれや、な?」
背中を猫にしながらよたよたと家に入るようにすすめるのでした。
どうにも人が良い、淵なのでした。
「うむ、」
張遼は空を一度仰ぐと、堂々たる足取りで夏侯淵にすすめられるがまま、家に招かれました。
かわいい娘達をあしらいながら、淵はとりあえず庭の隅の東屋に張遼を通し、自ら茶を入れてもてなします。いくら鬼神変人とはいえ客なのです、淵はそこのところとても律儀かつ素直なのです。
張遼はかたじけない、と茶碗を手に一礼し、ぴんと伸ばした背筋もそのままに茶を飲みました。
しばし平穏な静けさが訪れました。庭の遠くで淵のみっつになったばかりの子供がきゃっきゃと笑っています。
「あー…で、えーと…なんだっけ」
淵は落ちつかない様子で張遼の正面に腰を下ろしました。自分も茶を口にゆっくりと含みます。
淵はちょっと、猫舌ですのでゆっくりとです。
「私が夏侯惇将軍に欲情し、かつ交尾を画策しているということだが」
びゅぶわっしゃー!
淵は見事に霧状に茶を噴出しました。春の日差しにきらり、小さな虹が出来ます。
張遼はその虹をよけもせずに、おや虹ですな、と感心した口ぶりで呟きました。
淵は目を白黒させながら今度は激しくむせてしまいます。けんけんと苦しそうに咳をする淵の背中を張遼は全く感情の読み取れぬ顔のまま背中をたたき、大丈夫ですかなと問いました。
淵はもう、涙をうっすら浮かべながら、ううぅと、呻いています。
「こ、ここ交尾って…」
張遼は力加減を全く考えない強さで淵の口元をごしごし布巾で拭うと、再び座りなおしました。
あの髭をなで付けながら、
「あの方を、心よりお慕いしているのだ」
冗談や酔狂とは到底思えぬ口ぶりで張遼は静かにそう言いました。
その言葉にうそがないことが何故か分かり、淵は張り合うように親指を立てて見せ、どこか誇らしげに答えます。
「確かに惇兄は格好よくて、格好よくて、強くて、そんでもって格好よくて、でもちょっと殿のこととなるとちょっと抜けてたり、でもそんなとこもいいんだよな」
「うむ」
「でな、『淵、俺は孟徳のために命をかけるぞ』って言うから、じゃあ俺は惇兄のために命をかけるって言ったのよ」
「ほう」
「そしたら、『俺のために孟徳のために命をかけろ』って言うのよ」
「おぉ…」
「もうそんなん聞いたら、惇兄は絶対俺が守るって誓ったんだ」
えへへへ、と鼻の下を擦りながら淵は笑いました。てれてれと目尻を下げた顔で、えへへへ。
張遼はうむうむと腕を組み、いい話ですなと相槌を打ちます。
しかし淵は突然、名手と知られたその弓のように鋭い眼差しを張遼に投げました。
髭をさりさりとまわすように撫で、口を開きます。
「だから、殿と惇兄は特別なんだ。お前も知ってんだろ?惇兄の全ては、殿のためにあるんだ……それで、いいのか?」
一瞬瞼を閉ざして、すぐに開く。張遼は戦に赴く時と同じ目で、
「この身は、この身全てを夏侯惇殿のために捧げよう。夏侯惇殿が望むがまま、殿のために武を奮い、鬼神と、畜生と呼ばれもしよう」
然と、言い放ちました。
鳥の声すらも遠くなったようで、淵の唇が微かに動きます。
ああこいつほんきなんだ―――
淵は静かに、空いた張遼の茶碗に茶を新たに注ぎました。舞い込んだ桃の花弁がひとひら、浮かんでいます。
「私のものでない、殿のものであるあの人が好きなのだ、」
張遼は、その花弁ごと茶をぐっと飲み干し。
淵は一言そっか、と呟いて。
まぁ飲めやと酒でもないのに茶をすすめました。
張遼はただ黙って、茶碗に受けます。
静かに、そうしていました。
しばらく二人茶を酌み交わした末、淵は口を開きます。
「……で、今日は結局何を?」
張遼はうむと頷くと胸元から懐紙と携帯用にあらかじめ墨を含ませておいた筆を取り出して、一言失敬と断りを入れると傍らの湯瓶の湯で湿らせました。真面目な顔つきで、尋ねます。
「夏侯惇殿の好きな食材と料理、嫌いなものを聞きたい」
またもや淵は茶を噴きそうになりながらもなんとかこらえ、
「へ?って、どうすんだそんなこと聞いて、」
と逆に聞き返しました。きっぱりと張遼は胸を張り、さらさらと何事か書き付けると、
「弁当を作るのだ、」
と自信たっぷりに答えます。
「べんとう…!?」
「毎朝作って渡して差し上げるのだ、」
静かに立ち上がり筆をまるで武器のようにしゃ、と構えると、
「尽くして尽くして尽くして尽くす!!張文遠ここにあり!」
高らかに名乗りを上げました。
淵はもうなんだかどうにでもなれと思い、問われるがままに答えてしまいました。
後日、惨い有様の無記名手作り弁当が毎朝、惇のもとに届くことになります。
淵はそれを見るたび、とにかく食べるように、きりきり胃を痛めながら頼むのでした。
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