土鍋通い
一年をひとまわりする内で、もっとも水も風も月も冷たいあたりの日。
とても雪が深い日、太陽はすっかり雲布団に覆われて光の裾すら見せない日に、夏侯惇は張遼を訪ねてみることにした。
用は無い。暇であった。ならば張遼も暇だと夏侯惇は勝手に決めた。
だが手ぶらは良くない、何か手土産でも持たねばならぬとしばらく家中を穴熊のようにうろうろと探し回る。
きっとあの見た目と違い無精すぎる武将は、蒸した米に塩でもかけて食べているだろうから。
酒と、苦笑いする下女が用意して包んでくれたつまみ。
それから柄にも無く花を持とうかとも思ったが、あまりにも柄でもないし咲いてないしまぁ良いかと夏侯惇は結局、酒とつまみだけを手に家を出た。
ずいぶんと雪が深くなっている。
傘をかぶりなおし、首にくたびれてきた狐の毛皮を巻きつけた。
「さむいな」
傘をかぶっている上口元あたりまで毛皮を巻いているので、押し込み強盗のようでもある。
夏侯惇は包みをかかえて、ぎしぎし雪を踏みしめ、歩き出した。
普段小さいものの川が流れ、ごろり無造作に岩があったいつもの通り道は今、真白な一枚布に果てていた。
音という音全てが吸い込まれ、とおくかすかに積もった雪が枝から落ちた音がしたのみ。
後ろを向いてももう、足跡は残っていない。
冬の寒さに硬く締まった幹の梅が二本、門のように待ち構えている家が見えてきた。
張遼の家は、曹操が思い切り贅を尽くし、最高の木材と最高の職人、そして曹操御自らが図面を引いて製作したもので、大層豪勢ですばらしく立派である。
火の起こりがよい台所のかまどから始まって、隙間のできないように工夫された壁、夏場熱を逃がして冬熱を逃さない構造、高い天井など、魏王曹操の思いつくままに才を奮った内装になっているのだが、
だが肝心の主人が張遼というのが、この館最大の不幸であった。広い部屋の隅には埃がふんわりと積もっている上、ときおり触覚を持った巨大な虫が出たり、かまどにはくもの巣が張っている。
まったく本来の実力を発揮できていないこの館に夏侯惇が訪れるようになって、ようやく多少は機能をなすことができるようになった。
夏侯惇が館に到着すると、門はからりとゆるく開いていた。これも館の主人の意向で、鬼の張遼の館に盗みに入れるならば入ってくるがよかろうとのこと。
使用人も特にいないので結局入り込まれたとて怪我人が出る恐れも無い。その代わり家はさびれている。
「張遼、いるか」
夏侯惇は太い大声で呼びかけた。あわせて肩の雪を払いながら耳を澄ませる。
かさかさと何か、動く音がした。いる、そして珍しく起きているようだ。
「入るぞ」
夏侯惇は疲れも忘れて、雪かきすらされていない埋もれた入り口へと踏み出した。
館の中に入ると、火を熾してもいないというのにだいぶ寒さは和らいでいた。
風が入り込まないからである。
夏侯惇は首に巻いた毛皮を襟から抜き、玄関にしゃがむと雪が凍みて冷たくなった靴を脱ぐ。
しかし指先がかじかんでしまってなかなかうまく脱げないでいる。両手で引っこ抜くように靴を掴んでうんうん言っていると、
「なにをしておいでか、」
した、したした、
軽い足音が夏侯惇の背後から近づいてきた。夏侯惇は顔も上げずに、
「すっかりしもやけだ、かゆい」
と笑って靴をずぼりと抜いて、土間に転がした。
「さようか、」
「あぁ」
夏侯惇は振り向く。
ぐずぐずに着乱れた、しかも何日も着続けている様子のくたびれた寝巻き姿、あわせがはだけて太ももや腰布もあらわ。
くせのある髪の毛があちらへこちらへ移り気にぼうぼう自己主張をしているのもかまわない。
髭も整えていないようで、うっすらではあるものの顎やもみ上げのあたりにぷつぷつと芽吹いている。
ずいぶんとなごやかな鬼神張文遠があった。
その様子に夏侯惇は笑う。少し白い息が覆った。
「寝てたか?」
「いや、横になっていただけだ」
「そうか」
竹筒と料理の包みを掲げて、また笑う。また、白い息が覆った。
「雪見酒でもどうだ、暇だろう」
張遼も笑った。
まったくかないませんなと言って、笑う。
最近とても張遼の顔に自然に笑顔が浮かぶのがとても、夏侯惇には好もしい。
「いいですとも、」
そうして、二人したしたと客間に向かった。
「ひどいな、」
「そうでもないですぞ、」
「ひどい」
「……」
脚に立派に彫り物の施された、つやつやと塗りがすばらしかった卓はすっかり埃をかぶってしまっていた。
ちぃちぃとねずみが鳴いて、慌てて足元を走り抜けていく。
そこかしこに脱いだ服や、腰布、飲みかけ、食いかけ、
客間はさながら、混沌としていた。
夏侯惇は呆然と、床の見えない衣服の山を見下ろして呟いた。
「この間俺が来たとき、まだ床は見えていたろうが」
「はぁ」
そうでしたかなと張遼は髭をひねって顔を背けた。
すっかり雪見酒どころではないと怒り出してしまった夏侯惇に、今更ながら着衣の乱れを直して居住まいを正す。
夏侯惇はふぬっと気合を入れると袖をまくり、裾を上げた。どうやら腹を決めて掃除にかかるようである。ぼんやりと張遼はその様子をただ眺めていた。
すると、
「この間も俺が掃除をした覚えがあるぞ、どういうつもりだ」
邪魔な髪の毛を結って、張遼を睨む。
「うちが汚くなれば、来てくれますからな」
あいたかったといったらおこりますかな、
にこりと、張遼はきれいに微笑んだ。夏侯惇はこういった、張遼の笑顔が自然に浮かぶのが、少々腹立たしい。
「しばくぞ」
本当に殴る。この有限実行なところが少々、張遼には好もしい。
じゃまだじゃまだと張遼の首根っこを掴み、放り出す。あわせて張遼にお燗番を命じると、隻眼の夏侯惇将軍たった一人、ごみと衣服の大軍勢に向き直った。
敵は戦場全体に陣を敷き、また伏兵も数多くいるようである。
「今のままでは、戦況は見えんな…」
ぽつりと、もらす。
もちろん援軍は、無い。
すっかり片付いた部屋、窓際。窓を大きく開け放って、その側に二人して座っている。
まだ寒いものの、掃除を済ませてから湯を使ったこともありさして気にはならない。
そっと、夏侯惇は張遼の横顔を盗み見た。とても先程の乞食まがいとは似ても似つかぬ清らな姿にすっかり生まれ変わっている。
じっと、張遼は夏侯惇の横顔を見据えた。いつだって堂堂と正面より名乗りを上げて、内へと閉じこもる自分の目を外に向けてくれる男。
「さて、張遼、俺が言ったとおりにやっておいたか」
咳払いをひとつして夏侯惇が場を取り繕うと、張遼が立ち上り、酒の用意を始める。
茶碗ほどの大きさで鉄の小さな器に炭を熾し、上に五徳をのせたものをまず、卓に置く。
その上に夏侯惇が持ってきた包み――土鍋を備え付ける。その土鍋に一掴み、きれいな雪を入れておく。
そしてそのまま、ごくごく、弱火。
土鍋はいったん放って置き、燗をした酒を共に湯に浸した小さな杯に注ぐ。無論手酌だ。
二人同時に杯を取り上げ、傾け、きゅーっと酒を喉に滑らせる。
一息に飲み干して、杯を置く。
「くぅう、」
「はぁあ、」
白い湯気が二人の唇から漏れる。目が細まって、笑いあう。
「……うまいですな、」
「孟徳が作らせたんだ」
途端、張遼の顔に暗雲。見る見るうちにかげるその移り変わりに、夏侯惇は微笑を頬に浮かべると、ちょいと人差し指でその渋い鼻面をつついた。
「嫉妬したか、張遼」
「……さぁ、自惚れも大概になされよ」
むっつりと酒を再び杯に注ぎ、張遼はむっつり押し黙った。
一人気持ちの良い笑い声を響かせる夏侯惇。日にしっかりと焼けた頬が、少し赤い。
不機嫌な張遼を肴にひとしきり呑んだ後、頃合だと言うと袖で取っ手をくるみながら土鍋の蓋を開いた。
「おぉ、」
張遼が目を見張る。
土鍋の中には、酒とにんにくとたまり醤油に漬け込んで下味を付けた豚のばら肉と、寒さに身がしまり、ぼってりと分厚く見事な白菜の葉交互に重ね、横に茸と百合根をごろりと転がして蒸し煮にしたもの。
先程焦げ付かぬよう雪を一掴み入れたため、すっと表面に脂の浮かんだ、すばらしい香りのスープが底に溜まっている。
白菜は醤油に薄く色づき、箸がたやすく入る程に透き通ってやわらかい。
干した柚子の皮が、さわやかに香りを引き締めている。
鼻にのぼりくるその香りと、見るからに熱々とした料理に張遼は思わず身を乗り出した。
「素晴らしいですな、これは」
夏侯惇は得意満面、器に取り分けながら目を細めて、鍋底のスープを上からかけ回してやる。
「これなら簡単だから、お前にも作れると桂花が言うもんでな」
「桂花殿が」
「おお、心配しておったわ。また骨と皮になっているんじゃなかろうかとな」
「はは、」
苦笑を酒ごと呑み干すと、待ちかねたように箸を取って器を手にし、会釈。それを見て夏侯惇も自分の分を取り分けて箸を手に、会釈。
同時に口に運ぶ。
「あふ、」
「あつ、」
豚肉の脂と下味がじっくりと染み込んだ白菜をかみ締める、味が熱々の痺れと共に喉や舌に広がる。
鼻に抜けるこっくりとした香りが、飲み込んだその直前、殿をつとめる柚子の香りに追いやられ後はたださわやか。
そうするとすぐに次の一口が欲しくなる。
飲み込んだら酒がほしくなる。
舌が慣れてくる、そうすると放っていた茸がこりこりとちょうど良く歯ごたえを与えてくれる。
百合根の土くささと、ほっくり甘いのがとてもよくあっている。
黙々と、食べては呑んで、呑んでは食べた。
「くぁ、」
すっかり空となった土鍋を前に、中身の詰まった腹をさすりさすり、夏侯惇はあくびをした。
張遼は最後に作り置いた茶を飲み干すと、ふと尋ねた。
「そういえば、今日はどういった御用だったのですか」
「あぁ?」
「何か、用があったのでは?」
ああそれか――
夏侯惇はなんともない口調、普段の声、そのままの顔で、
「今日なら、お前が俺を好きだと言うかと思ってな」
と、言った。
張遼は虚を突かれて、ぐむぅと唸る。茶碗を下ろすのも忘れて、そのまま口ごもる。
「……何を、言って」
視線を卓と外と、夏侯惇と、その首筋と、手首と、唇とをめまぐるしく行き来させながら、小さな声で、
「自惚れも大概になされよ」
さっきのやり取りよりもずいぶん小さな声で、早口でそう言った。
「そうか、自惚れか」
夏侯惇は、悪戯の失敗した子供の顔で頭をかいた。
「…そうです」
確認し、自分に言い聞かせるように張遼ももう一度言う。
「それじゃあ今日は、同衾はよそうか」
「!!」
今度こそ張遼は、言葉をなくして真っ赤になった。
次の日の朝。すっかり晴れて、雪がきらきらとうるさいほど輝いている。
目の下に隈をこさえた張遼の肩を抱いて、すがすがしい笑顔の夏侯惇は言った。
「それじゃあな、今度はうちにも来いよ」
「はい、桂花殿にもよろしくお伝えください」
あくまで平静を装う張遼の顔にそっと顔を近づけて、
冷気に赤い、耳たぶを噛んだ。
「あの土鍋に今度、肴を詰めて来いよ」
舌先でそっと、耳を舐めると含み笑いを耳に注ぐ。
「肴と酒を持って、会いに来い」
な、
笑う鬼を前に、ただ張遼はがくがく震えるしかない。
この日より、張遼と夏侯惇との間で土鍋の行き来が始まった。
思い思いの肴を詰めて、通う。
後に、『土鍋通い』と呼ばれることになる。
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