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土鍋通い3


今日はこちらに来ないのだろうか、
と、門の前に立ち、右に、左に見渡してみる。
右には塵塚、左には杉の大木が雪をかぶって立っていた。
それ以外、特に、目的の男はどこにも居ないのを主人は、半ば笑いすら浮かべて確認する。
そして、肩を落として屋敷へと戻ってゆく。
門へ、屋敷、門へ、屋敷へ。
これを日に四度は繰り返すのだ。

ここ何日か、門と屋敷とを往復するのが主人の日課となっている。
緑雲はそんな主人である張遼をつくづくに愚かだと思っていた。
あいにゆけばよいのだ、
緑雲は張遼をつくづくに愚かだと思っていた。
が、それを口に出すほど分別がないわけではなかった。
大層に、緑雲とは賢い娘である。
あいにゆけばよいのだ、
賢い賢い娘ではある。
それでも、時折唇を微かにふるわせないでもなかった。


























緑雲は、張遼の屋敷に引き取られた娘である。年齢は彼女の自己申告によると7歳だという。
名前は夏侯惇がそのうつくしい緑の目から勝手につけた。本人はそれに対しての感想を述べたことは無かったが、不満はないように見えた。
褐色の肌に底深い緑の目、頭は諸事情により髪の毛を剃り落とした手触り滑らかな坊主。
浮世離れした然とした雰囲気と、美しい輪郭の後頭部を持つ。
夏侯惇と張遼が二人縁有って遊郭からかどわかしてきた幼い娘で、身よりもないためそのまま張遼の身の回りの世話をする下女として引き取ったのだ。
が、どうにも非常識な主従のため関係はとても不自然でそれでいてすこぶる良好だ。
「張遼、」
今日も収穫なく門から戻ってくる主人に対して、縁側に腹ばいに寝転がっていた緑雲は細い首を傾げて、日陰の草花のごとき主人に声をかけた。
「捨てられたか」
目線の下から這い上がってくる、物言いというものを知らない少女の言葉に張遼は萎れた。
「そういう訳ではない」
特徴的に上を向く口髭が、むっとしたようにぴくりとして言葉を叩き返す。
早口に、だが限りなく覇気の無い主人に緑雲もなんだか、萎れた。
早春の午後である。
灰の濃い雪雲が厚く空にかぶさって、太陽などまったく見えはしない。
暦ではもう春であったはずだと緑雲は認識しているが、冬はまだまだ長居を続けており、今日も雪が性懲りも無く雪雪としている。
二人寒々とした縁側に背中を丸めて座り、積もり始めた雪を何をするでもなく眺め続けていた。
話題は自然と、ここ最近来訪のない夏侯惇についてとなる。というよりも二人の共通の話題のほとんどは夏侯惇がらみといってもいい。
「なら、なぜ元譲はこないんだ」
「子供と違い、職務があるのだ」
思わず言い返すような物言いで、語調を強めて張遼は言った。
そして張遼の顔にはすべり出た言葉への後悔が浮かぶ。軽率であった、好きでこれも子供をやっているわけではあるまいと考えるあたり張遼はやはり真面目な男である。
「張遼は暇なのにか、」
そんな張遼の気も知らずに当の緑雲は気を悪くした気配もなくぽんと言葉を投げてよこした。
「……」
「元譲に会いたいぞ」
子供は素直である。
雪はしかし外界を全く拒んで強さをうんうんと唸って勢いを増した。
ぼた雪である。
水分が多く、舞うようなことはない。
「私とて会いたい。が、迷惑をかけるわけにもいかぬ」
「迷惑なものか、会いにくる手間が省けてよろこぶぞ」
「まさかよ」
「本当だ、」
「だが」
「わかる。絶対だ」
確信を頬の赤さに乗せて言い返し、骨のくっきりあらわな肘を板張りの縁側について身体を起こす。
うう、と風が唸りながら緑雲の襟首をくすぐった。

突然、突然緑雲は体重を感じさせない動作ですっくと立ち上がり、白くけぶる雪の向こう側を半目になって睨み付けた。
おお神がかっているのだ、と張遼はすぐさま理解し、黙って同じく雪の向こうを眺める。張遼には何も、見えない。
緑雲は時折、神がかる。文字通り人ならざる声を聞き、知るはずの無い事、わかるはずのない事実をその意識のないところで語るのだ。
その能力を知ってか、遊郭では時折辻占の真似事もしていたそうで、『本業』と比べても評判だったということである。
「――どうせあいつらは碌なものを食っていないだろう――」
野太い男の声が、骨の細い緑雲の喉から漏れた。唇は半分開いたままぶるぶると震えるだけで、決して言葉をつむいでいるわけではない。
これは、夏侯惇の声である。瞬時に張遼にはわかった。反射といってもいい。
緑雲の上体がぐるりと大きくいびつに円を描いて、上下にゆりゆりと揺れる。
「鍋にでも、しようか――」
しようかぁ、と語尾が濁って間延びし聞き取りづらい。
瞳孔の開ききった眼が見えざるものを見ている。虚ろである。
うううう、風が声を邪魔するように一際大きく鳴った。
「行くかな、だがなぁ」
緑雲の枯れ木のごとき腕が持ち上がり、つるりと手で顎を撫ぜる。これは思案する時の夏侯惇の癖だ、張遼にはわかった。反射といってもいい。
「あの家は汚いからなぁ」
「清潔にし、お待ち申し上げる!!」
思わず張遼は衝動的に大声を上げていた。手は拳の形のままぐむ、と強く強く握られている。

間があく。我に返った張遼は耳を熱くして恥じ入った。私は何をこのようなところで大声を張り上げているのだ。
間があく。張遼はこの場に緑雲を放り出したまま逃げ出したい気分に駆られた。
間があく。ああ、ああ、何か言ってくれ。張遼はそろそろ諦めを抱く。
ざーざざ、ざ、ざざ、
雑音の波が酷い、その合間、あの夏侯惇の低くざらついた、苦笑の透けて見えるような声が張遼にさずけられる。







「―――なら、行くとするか」




ぷつん、雑音が途切れた。同時に二人を包んでいたかすかな夏侯惇の気配が細くするすると引いていく。
完全に気配が途絶え、神が通り過ぎれば唐突に緑雲はこちらの岸に戻ってきた。
くにゃりと芯をぬかれるようにくたくた縁側にしゃがんで、熱帯の緑の目がもの言いたげに張遼を振り向く。張遼は緑雲の肩を抱いて支える。
心臓のあたりを押さえつけながら、張遼は白面に興奮の赤を透かせて無言の問いに答えた。

「……小緑」
「うん、」
「元譲殿が来られるぞ、今日は」
「だろうな」




張遼、緑雲、二人は興奮に目を普段無いほどにきらきらとさせて手を取り合っていた。
来るのだ、
来るのだな、
張遼はその白く薄い瞼にうす青い毛細血管を透かす程に高ぶっている。会えると聞いただけで久しく忘れていた、雄としての滾りがちらりと腿の辺りに痙攣となって訪れた。

突如、
轟轟、
轟轟と、風が渦を巻いた。
俄然、熱を持つ。
張遼連合軍は立ち上がり、声を風に負けじと張った。

「小緑、我らはこれより屋敷内の清掃にかかる!」
「おう」
「現状として、わが軍は不利ではある…が、」
「うん」
「機知と覇気で、打開して見せるのだ!」
「おお!!」
気合を入れると縁側からぐるりと部屋へ向き直る。
清掃だ、
清掃ぞ、
二人の士気は龍となり天へと一筋勢い良く立ち上る。

二人は足並みをびたりとそろえて部屋へと踏み込んだ。
そこに広がるのは、
まさに、地獄であった。


脱ぎ捨てた、酸化した汗が異臭を放つ服。
わんわんと小蝿の湧いた大量の残飯の山。
水周りには黒々と黴が栄華を誇り。
床は何かの汁でぬめぬめと、滑る。
全体的に、空気が澱んでいる。

「………」
「………」


龍が如くの、二人の士気は勢い良く下がった。

二人が立ち直るにはしばらくの時間を要した。その間にも雪はべたべたと地面に落ち続けてゆく。
風も風で負けじとうんうん鳴っている。
ようやく背筋を伸ばした張遼の頬にはまだ、拭いきれぬ疲労が色濃い。
が、そこは張遼である。今まで星を数えるほどの修羅場を切り抜けている。張遼はつとめて平静な声で緑雲を励ました。
「小緑、この死地を越えねば我らに道はないのだ」
「うん」
「それに、早くせねば夏侯惇殿に呆れられてしまう」
「うん、」
「それは困るのだ」
「困るな」
「あぁ」
「うん」
「………」
「張遼、いつも元譲はどうしていたかな」

「そうだな、確か」
二人は同時に目を閉じた。
脳内での夏侯惇は、腕捲りをし、脛まで袴をたくし上げた姿である。毛脛が見苦しいなどとからかったら無言で拳骨が飛んできた。
一通り家の惨状に目を剥いて文句を怒鳴り散らした後、
まずはな、とため息混じりに言った。
「「まずはな、」」
二人は同時に反復した。
『まずはな、一番汚れている所から済ませるんだ』
夏侯惇はまず、水周りを指差して、縄を手の平に巻きつけてそう言った。
「水周りだ、」
「やろう、任せろ」
「任せたぞ」
張遼は頼もしい味方に薄く口元をほころばせて笑い、自分の戦場を求めて台所から歩み去った。
緑雲は肋骨の浮いた薄い胸を叩いて請け合い、すぐさま部屋の中央に陣取るごみの山へと突撃していく。迷わず腕を山の片隅に突っ込んで引き抜いたその手には、短い縄の切れ端があった。
それを誇らしげに張遼に掲げて見せた後、手の平に夏侯惇がしていたようにぐるぐると巻きつける。そして土間に素足のまま降り立つとざらざらとその手に砂をまぶし、石造りの水場に立ち向かった。
この水場は本来で黒石の塊をくり抜いた風呂型もので、たまった水を流すための穴もあけてあった。しかし、ここで張遼が髪の毛を洗い流すようになってから、髪の毛や野菜屑がもつれ合ってすっかり詰まってしまっている。また、その水の抜けた先はそのまま竹の管を通って外に出されることになっていたが、その管ごと腐食してヘドロとなっている。
水場には黒ずんだ緑の苔や黴が繁殖して悪臭を放つ。そこに眉ひとつ動かさずに縄ごと手でもって擦り始めた。たちまちに黒いどろどろとしたものとなって黴がこそげ落ちてゆく。しかしその黴の層は随分と厚く、なかなか石の色は見えてこない。
「……」
唇をぎっとかみ締めたままの緑雲は必死に坊主頭に汗をかきながら擦り続ける。元譲、元譲、あいたいぞ。
緑雲は知っている。自分以上に夏侯惇に会いたくて、自分以上に夏侯惇が会いたく思っていて、自分以上に不器用な男を。
仕方が無い、自分の主人のためにできることをしようではないか。
緑雲はかしこい娘で、彼女なりに主人思いの娘であった。


一方その主人、張遼は彼らしくも無い原始的な方法で部屋を進軍中であった。その進路を阻むものあらば、躊躇無く掴む、そして、
「ぬぅ」
庭に向かって放り投げる。たちまちに張遼は部屋を歩む。その後ろには本当に最低限必要なもの、例えば夏侯惇から貰った書や、夏侯惇から借りたままの服、夏侯惇がよこした書簡などである。
それ以外は、全て放り出した。
なに構わない、張遼の切れ上がった眼と薄い唇は薄く笑んですらいる。
もとより何かを必要として生きてきたわけではないのだ、
あれが無ければ死ぬ、これが無ければ駄目だ、そんなもの、たくさん抱えて生きてゆける訳はない。
重荷なのだ。だが、重ければ重いほどいい、夏侯惇殿…いや、元譲殿、緑雲、国、いや国というよりは殿、仲間。この私が仲間、なんだか気恥ずかしいではないか。
がごん、大きな音を立てて、霙交じりの雪が叩きつけられるぬかるんだ庭へと赤子ほども有る木製の像が放り投げられた。像は張遼の姿をしていた、戦の武功に褒章として曹操から与えられたものである。
情の薄い男だ私は、また笑った。その気になれば、夏侯惇以外全て捨てたってきっと、構わないとすら思っている。
しかしそれは出来ないのだ。
紫の、趣味の悪い着物が風を巻き込んで狙いから随分はなれた庭の隅へと飛んでいった。着ない着物は、虫を呼ぶ。
それは出来ない、
「元譲」
夏侯惇、いや元譲が望むからだ。たのむ、たのむぞ、張遼よと。
あのさして強くもない、求めてやまない男はずるい言葉を簡単に言う。
「元譲、」
元譲、元譲、まだか、まだ着かぬか、
「いや、まだ着かれては困る」
ばりばりばり、脚で体重をかけてなぜか床に落ちていた戸板を二つに折り曲げて、庭に放り出す。
今の今まで戸板があったことを知らなかった。というより、どこの戸板なのかも二人は知らない。
「ああ、ああ、……」



戦の後のことであった。
夏侯惇が出征し、ずたずたに破れて帰ってきた戦の後。
誰も夏侯惇を責めはしない。
途中までは誰もが勝利を疑わないほどであった、が、絶命寸前での敵の悪あがきとも言える奇襲。
勝利を確信していた兵達はあっけないほど簡単に死んでいった。
将軍は悪くないですよ、
そう言う半分は、本心から。
将軍は悪くないですよ、
そう言う半分は、夏侯惇が夏侯惇であるから。はっきり言えば、曹操の親類だから。
一通り報告を済ませた後、隻眼の敗将は自らの小さな屋敷に引きこもった。
心配をした魏王曹操が訪ねてきた際にも、体調が優れないとの理由で追い返したと聞いた張遼は、
(私ごとき、会ってもらえないだろうが)
と半ば諦めの様子で訪ねていった。気の利かぬ張遼には精一杯の酒を手土産に、馬にすら乗らずに徒歩で訪ねたのだ。
勢いの弱いさぁさぁとした雨の夜で、雨明が近いのか薄い雲を通して月が見え隠れをしていた。
しかし、おっかなびっくり訪ねてきた張遼に下働きの桂花は、
「旦那さまが、お待ちですよゥ」
とだけ言って、それからはおしゃべりな彼女にあるまじき沈黙と手灯を連れて部屋へと案内した。
部屋には灯りはなく、張遼が入ると桂花は外から戸を締め切ってしまう。そうなってしまうと夏侯惇がどこにいるのかすら見えない。
見えない、が、
(息遣い、が)
生き物が居る気配を、その肌で張遼は感じた。その時、張遼は最低なことを自然と考えた。
(夏侯惇殿さえ無事であらば、他の人間なぞどうなったとて構わない)
更に、
(殿が、他の誰かが貴方の失態を責めるというなら、斬ってもいいのですぞ)
本気であった、本心であった。
あやうく口を開きかけたその時、気配の塊その源である影がぞろりと動いた。
「張遼、きたのか」
その声はしわがれていた。普段酔っ払って歌を歌う様が素晴らしく似合う、あの猫の舌のように心に触れる声が嗄れている。
背中の骨が連なる線が、ざっと粟立ったのを張遼は感じ取る。
泣いたのか?
泣かれたのか?
誰にも見せずに?
一人で?
一人で?
張遼は押さえつけられたかのようにその場にしゃがむと、平伏した。額を冷たい床に擦り付ける。雨漏りのためか濡れていた。
「皆、死んだ」
軽く咳を一つしてから影は続けた。
「そうですか」
はるか異国の巫女がするように、頭は上げないまま張遼は答える。
「……なぁ、張遼」
そこで夏侯惇が、情にあついこの男がさめざめと泣き出したらば、
貴方のせいではありませんとか、
死んでいった者達のためにもとか、
もっとやるべきことがあるとか、
陳腐な言葉を沢山舌に乗せる用意を張遼はしていた。




















「あの時俺が強ければ、あの地は孟徳の物になったものを」

突如、雨脚が強まった。

なんと、
なんと、
汗が額から鼻筋を伝い落ちて、床の雨漏りと混じる。
腹の底から、慄然とした。
この男は、普段あれだけの情を振りまいておきながら、
死んでいった者よりも、殿一人を気にかけるというのか。
狂っている、と張遼は思わずにはいられなかった。
しかしそれ以上に、
「貴方は、弱いですからな」
それ以上に、そんな本心を見せられた自分に悦びを感じている。
私は今、彼の懐に居る。喉から笑いがこみ上げてきた。
「そうだな、俺は、弱い」
ははは、皆知らぬ、
この男、言われているような仁義の男などではないぞ、
皆知らぬだろう、
殿すら知らぬかもしれぬ、
はははは、
ははははは、
知らぬだろう、
「だから、張遼」
神の言葉を聴く、巫女のように。
伏して伏して、全てを捧ぐ。
「だから、頼む」
思わず張遼は顔を上げていた。
今なんと言った?
顔を上げたところで、姿は見えない。
尋ねたところで、答えはない。
それでも全ての意思は絶対で、それに抗うことは不可能。
神ではないか、張遼は笑うしかない。
「孟徳のために、全ては」
神は笑う。
人の意思なぞお構いなしに。
ただ望めば、人はその意思に沿うように踊るしかないのだ。
「………」
「たのむ」



















部屋のものを八割方放り出して、ようやく張遼は一息ついた。
あの時、確かに神の声を聞いたと思った。
しかしそれから、そんな事態に陥ることなく今に至る。
平和だということは、ありがたいということだ。
結局二人ずるずると付き合いながら、こうして部屋を片付けたり、食事を作ってもらったり、
たまさかに、肌を重ねたり、する。
「だが、私という人間は、芯のあたりでは畜生同然のままというわけか」
最後の最後は一人ぼっち、というわけだ。
胸の中にだけ、おまえが。
物がなくなった部屋は突然広くなり、張遼を内包しながら押しつぶそうと収縮する。
竹筒の黒いヘドロのように、髪の毛も残飯も絡み合い、腐り異臭を放つ。
はははは、
「張遼!」
大声。
その思いを裂いて、玉となった縄が張遼の頭に投げつけられ見事命中した。
「つッ、……小緑!」
毒気を抜かれた、冬眠あけの熊。
間抜けに口を開き、何をするのだと縄を振り上げて怒ろうとする。
しかし、できなかった。
緑雲の、あの緑の目がまっすぐに張遼を射抜く。
「よこしまにも、程がある」
張り上げるでもなく、声を紡ぐ。
打たれたように張遼は膝をついて、肩の力を抜く。
そしてそのまま、荒野と化した部屋に仰向けになって寝転んだ。
まったくだ、
まったくだ、
「はははは、」
突然笑い出した張遼に、未だ納得いたしかねる様子で緑雲はふくれながらもそのすぐ側に寝転ぶ。
「ばかだ」
「馬鹿か」
「ばかだとも」
「そうか」
いつになく上機嫌な張遼を薄気味悪いものを見るようなしかめ面をつくると緑雲はそっぽを向いた。
つまらなそうにため息を漏らし、
「春はまだか、張遼」
とわがままを言い出した。張遼は笑いを引っ込めないまま何の気なしに外に顔を向けて、見つける。
「小緑、見ろ」
外を指差す。つられて目線を向けた緑雲はわぁ、と歓声を上げた。


雪・明ける、
空・晴れる。


「春だ」
「春か」




山のような荷物を背負った、熊のような男が雨上がりの虹を背負って大仰な登場をしている。
男はこちらに向けて大きく手を振っている。

張遼は笑った。
緑雲も笑った。
夏侯惇も、笑っていることだろう。













春が来たりて、
春ぞ来たりて、

春、遥遥。

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