愛を歌おう!
花開く。
花開く。
その朝、春の朝そのものといった朝夏侯惇は目覚めた。
もともと寝起きのいいほうではないが、午前もそろそろ終わると瞼に当たる陽射しに言われては仕方が無い。
のろのろと、身体を起こす。癖のついた髭が口の中に入ってしまっているのを、顔をしかめて吐き出す。
普段であればもっと早く起きるのであるが、その起こし役である下女の桂花が休みをとっているためこんな時間になってしまったのであった。
いい天気であった。
風が窓から入ってきているが、それもつい先日まで居座っていた冬の気配はちらともなくあたたかい。それでいて緩んだ土の匂いが鼻へ届いた。
裸の胸をぼりぼりと掻きながら、ああとかううとか意味のないうめき声を洩らしてしばらく風を浴びた。
「春か」
春であった。
夏侯惇の呟きには誰も答えない。だがそれでも確実に春であった。
春がそこらじゅうから芽吹いて、窓からはずっしりと花をつけた桜の枝が見える。冬の間はその窓からは何も見えはしなかったが、花の重みで枝垂れて窓枠の中へと収まるようになったのであった。
少々はしたないほどの桜である。枝が殆ど見えないほどの、桃白色の太い棒のような桜の一枝。
風に枝は上下する。だが、冬を堪えて咲き誇る桜はびくともせずに花びらを数枚しかこぼさず揺れるだけにとどまった。
夏侯惇は微笑んだ。春が好きだというよりは、冬が嫌いだったというのが本音ではあるがそれでもつま先が痛むような寒さがないのは心から歓迎したい。
「久しぶりだ、淵と狩にでも出てみるか」
くしゃくしゃにほつれた髪の毛を無骨な手櫛でとりあえず一まとめにくくりながら久々の休みの予定を立て始める。
あれもいい、これもしたい、それも片付けねば、
日ごろ職務に追われる夏侯惇は頭に、到底一日では片付きようもない量の用事をはじき出す。
そのうちのおよそ五割は主君曹操、三割が夏侯淵。
そして、
「あいつはどうしてるだろうかな」
残り、雑務一割と、もう一割。
鬼の張遼のことを考えた。
あの男は春がこようが夏がこようがいつもあのまま、あるがままで、
「特段、変わったことはない」
とでも言うのだろう。あのおとこ、風流を解することなどあるのだろうかと夏侯惇は自分の野暮を棚に上げてふふふんと鼻で笑う。
いついかなる時も、それこそ病めるときも健やかなるときも張遼は張遼で、そしてその白石面で歯の浮くようなことを言うのであった。
『そなたこそ私の全て』
そんな言葉を酒も飲まずに言える男を、夏侯惇は一人しか知らない。
と、窓から吹き込む花びら交じりの風に混じって夏侯惇を呼ぶ声がした。
『かこうとんどの、かこうとんどの』
遠くから呼びかけているような間延びした声。夏侯惇はだれぞ自分を呼びに来たのかと、急ぎ枕元においてあった眼帯をぞんざいに巻きつけて窓から顔を出した。
庭は、誰もいないいつも通りの庭のままであった。茶鶏が三羽跳ねているだけの、猫の額の庭。
「うん?聞き間違いか」
眉を跳ねると首を傾げ、窓から出した身体をのそりと引っ込めようとした時、再び呼ばれた。
「かこうとんどの、いや、げんじょうどの、」
字で呼ばれた。再び窓の外を見渡す。それでも声の主は発見できない。
しぶしぶ寝巻きを脱ぎ捨てて、腰布一枚になって着替えを始めた。
「誰かいるのか、おい、さっきから呼んでいただろう」
麻衣一枚ひっかけると適当に身づくろいを済ませて外へと飛び出す。春のとろけた太陽が目に入ってきた。思わず眼を細めてから、手の平をかざして遮った。
両目ある人間であれば眼を細めても大して視界は狭まりはしないが、片目しかない夏侯惇が一つきりの眼を細めるというのは難儀なことである。そのため眼が落ち着くまで手の平を庇にして、裸足のまま庭を歩き回って声の主を探す。
ときおりおい、とか誰か、と声をかけながらであるが、それでも狭い庭のことすぐに探し尽きた。
慣れてきた目に庇の手の平を顎に滑らせ、口をへの字に結びながら顎髭をつまんで首をひねる。
気のせいであるとは思えなかったが、そう結論づけることにして部屋へと戻るべくきびすを返す。
『貴方に私の全てを捧ぐ』
耳が痛くなるような、内緒話で騙まし討ちの大声を出された時のような音量。
春の薄青い空一面、桜の花びらを残らず叩き落す勢いの大声がした。
「うっ」
耳を塞ぐ。誰かがすぐ後ろから脅かそうとでもしたのかと、顔を怒りに歪ませて勢いをつけて振り向く。
やはり誰もいない。
先程自分の足で自分の眼で耳で確認したとおり、誰もいない。
狭い庭。
桜の大樹。
跳ねる鳥。
柔い風。
しらしらと照る陽射し。
誰も居ない。
自分の耳がおかしくなったのだろうか、にわかに不安になり、気休めに小指を耳の穴につっこんでぐりぐりとほじってみる。
『私の心、芽吹くのを罪咎めることは誰にもできぬ』
「ぬッ!?」
どこから、と調べようも無いほど満遍なく空気全体を揺るがす声に、我慢できずに両方の耳を手の平で塞いだ。
「これはかなわん、一体どういったことだ!」
耳の奥がきんきんする。そしてそれ以上に、
「どういうまやかしか知らんが、この俺を馬鹿にしているのか!?」
そう、一連のこの声。
間違えようも聞き忘れようもない。
全てほかでもない張遼が夏侯惇に告げた言葉である。
内容だけではない、声も口調も全てあのまま、自分が聞いたあの声とどこも違うところはないと夏侯惇は奥歯をかみ締める。
ものすごい羞恥であった。
それもそうである。
同じ男からささやかれた『愛の言葉』を、国中に聞こえわたるほどの大音量で流されているのだ。
夏侯惇としてもいい年をした男だし、野暮なところに眼を瞑ればすこぶるいい男振りで、浮名を流すのもまんざらではない。
そこそこ武名も知れてもいるので女だって選びさえしなければ、向こうから寄ってくる位にはもてる。
好色一代男のように言われるのはごめんではあったが、もてないと言われるよりはよほどいい。
何より、このように、
『慕っている。貴殿、元譲殿を慕っている』
このように大声で男色だと宣伝されるよりは、よほどいいのだ。
「うおおおおおおおお!!!」
夏侯惇は叫んだ。たまったものではない。
顔から火が出る、眼血を噴く。じんましんがさざなみのように浮いた胸をばりばりと爪を立てて掻き毟る。
『あの山の紅葉のように、今我らの愛は燃えているのだろう』
あの真剣そのものの顔に、舌足らずな甘い声。眼差しはちらりとも揺るぐことはない。
『今日は私の夢を見てほしい、…醒めることのない夢を』
胸に手の平を当てた、自分には到底できないような芝居がかった仕草に言葉で愛を紡ぐ男。
『このさなぎが孵るころ、蝶となってそなたに会いに行きたい』
おまえはどこの物語から出てきたのだというようないでたちに言動、最初はなんて作為的な野郎だと僻みもあって避けていた。
『今はこの地面で眠る種子のように、春になれば我らの愛はたちどころに芽吹かん』
だが、この男はそれが自然体なのだと気づいてからはあまり気にはとめずに夏侯惇は受け入れるようにしていた。
『そなたのために、この張文遠という花は咲いたのだ』
それでもこのように、人に聞かれてかまうものでは到底無い言葉となれば話は別。
『元譲殿、これからは私の事を『ぶんぶん』と呼ぶといい。私は『げんげん』と呼』
「うががああああああああああああああああああ!!!!!!!」
こめかみの血管が破れそうな怒りに身体を任せ、満開の桜の大樹の幹を渾身の力を込めて拳で突いた。
ずずうん、と鈍く響く音を立てはしたが、当然ながらびくりとも幹は揺るぎはしなかった。
花びらが数枚、夏侯惇を慰めるように、ほろりと落ちた。
「ちょうりょおおおおおおう!」
鞍すらおかない裸馬にまたがり、抜き身の刀を下げて町を疾走する夏侯惇。
いつもきちんとしているとは言いがたいが、結うことはしていた真黒の髪の毛はおどろに解け、進行方向の反対へとたてがみのように波打ってはたなびく。
眼は真っ赤に充血して血走り、吼えるような大声で叫びながら馬を狂ったように急がせた。大きく開いた足からは毛脛が覗き、腰布がはためいているのを隠しもしない。
それを目の当たりにした町人はひそひそと囁き交わした。
やっぱりねぇ、
さっきのは、
ありゃあ、
まさか、
いや、
あの慌てぶり、
主語も動詞も目的語もなにもない、風に途切れ途切れて耳に入る細切れのささやき。
それだけでも腸の煮えるほどの恥ずかしさを感じる。
許されるのであれば今この場でここにいる人間すべてを切り捨てたいとすら思った。
ああなんということだ、なんという。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
吼えた。吼えでもしなければ、耳から追い払えない。
『げんげん、げーんげん、ふふ……呼んでみただけだ、なんて』
「う・お・お・お・お・おおおおおおおお!!!!!!」
何より打ち消せない。
そう、愛の囁きは続いていた。
夏侯惇がもっとも危惧していた、この恥ずかしい声が他の人間に聞かれるという事態は避けられない。
国中すみずみに行き渡るほど、
『そなたの声は小鳥ののさえずりのようだな』
「やめろぉうううおおおおおおおおお!」
響いている。
悲鳴を上げながら馬を駆り、国外れの張遼の屋敷へと飛ぶように町を駆け抜けた。
道行く人間が夏侯惇を指差していたのは、言うまでもない。
張遼の家は、曹操が図面から引いて、建材の指定にいたるまで手をかけて作られた、いわば建築学の極みである。
見るからに立派な広い屋敷だが、住んでいる人間はたった二人だけなのでがらんとした雰囲気だ。
その二人もとても浮世の常識が通用しない類の人間のため、庭は雑草で荒れ放題、室内はごみだかがらくたで埋め尽くされ、
時折夏侯惇が怒り狂いながら片付けに行く。
夏侯惇がその屋敷に近づくにつれ、声はますます大きくなった。
耳の穴だけではない、鼻の穴や口からめりめりと入り込んでくるような音の力に、馬の鬣にしがみつくようにしてなんとか振り落とされないようにするので精一杯。
馬から転がり落ちるようにして屋敷の門の前にたどりつくと、よろけながら主を探した。
相変わらず荒れ放題の庭だと、耳を塞ぐのも一瞬忘れて嫌ァな顔をしてため息をついた。
雑草の、名前も知らないような草に花がついており、それをむげに踏みつけにするのもはばかられる。
仕方なく着物の裾を太腿まで捲り上げて足を抜き、隙間に刺すようにして庭を進み、何とか縁側までたどりついた。
「元譲」
縁側に寝そべっていた、年の頃10にも満たない少女が頭だけを無精にもたげて挨拶をしてきた。
褐色の肌に濃い緑の眼、坊主頭の痩せた少女である。名を緑雲と夏侯惇には呼ばれていた。
「小緑、これはどういうことだ!!?」
顔を見るなり怒鳴った夏侯惇に、緑雲はううんと猫のようにのんきに伸びをして、
「なにがだ」
と、夏侯惇にとってつまらない返答をよこす。
「なにがじゃない、この声、頭がおかしくなりそうだ」
「いつも言われてることだろう、元譲」
「うっ…」
座りなおし、緑の衣の裾をわって胡坐をかき、あくびをひとつ。
異人の娘は裏庭を指差し、とろとろと眠気に浸されながら、
「それより、とてもきれいに咲いたんだ。せっかくだ、みていくといい」
それだけ言うとそのまま縁側に丸くなってすばやく寝てしまった。
「おい、…おい?」
よくもまぁこの大音量のなかそう寝ていられるものだと感心しつつも、仕方なく言われた通りに裏庭へと向かった。
大輪の、鮮やかな青い六枚花弁。花だけで大人を飲み込めそうだ。
めしべの黄色が映えて、まぶしいほど。
屋敷の屋根よりも高くまで生えた、ひとかかえはあろうかという太い黄緑の茎。
雨すらしのげそうに大きな葉は厚く、水分をたっぷりたたえて風にゆっくりとゆれている。
その巨大な花の中心から声は聞こえてくるのであった。
『元譲どの、元譲どの、元譲どの、』
『ああ幸せを今見た、笑ってくれている』
『朝が来た、彼のいない朝よ』
声が重なりあうように反響して、もはやなんと言っているのかもわからないほど。
夏侯惇は耳を押さえながら一歩一歩、音に流されぬようにして花の根元へと近づいていく。
その根元、まぶしそうに花を見上げる男が一人あった。
「張遼」
声をかけた。
男は振り向かない。
声に声を打ち消されてしまっているのだ。
「張遼」
声を張り上げてみる。
届かない。
声は届かない。
「ちょうりょう」
早く振り向け、
俺を見ろ、
なぁ、
おい、
「……ちょうりょう」
うるさい、うるさいうるさい。
張遼、黙れ。
お前が俺に言うばっかりでは、対等ではないだろう、
なあ俺にも言わせろ、
なぁ、
「………」
夏侯惇は思い出す。
去年の暮れに、見かけない商人から拳ほどもある植物の種を手に入れて、ものめずらしさに張遼に見せびらかしたことを。
その種は一見石ころにしか見えないほどにごつごつしていて、硬かったため、
『ただの石を、騙されたかもしれんな』
と酒を飲みながらそう笑って見せた。しかし張遼はそれを手の平に大事に包んで、
『きっとこの花が開く時に、二人の愛も咲き誇る』
眼を輝かせていったのであった。
あまりに恥ずかしかったので、照れ隠しに、
『そんなに言うなら、この花に毎日、俺に言うように語りかけてみろ。案外答えてくれるかもしれんぞ』
そんな戯言を言ったのだ。
この花が。
この花こそ。
あの男は、冗談は通じない。
わかっていたのに。
夏侯惇はどうしてだか、少し泣きたくなった。
こうして形にされると人間、やはりよわいものなのか。と胸を詰まらせた。
大輪の花の下。
愛を相変わらず相手もなしに歌う花のした。
とうとう夏侯惇は張遼を振り向かせることに成功した。
「ぶ…ぶんぶん!」
満面の笑み、それこそ花開くように、腕を宗教者のように広げて受け入れる。
「おお…げんげん!!」
間。
「だれがげんげんだ!!!!!!」
とりあえず、六枚花弁の一枚が思わず揺らぐほどの強打を、張遼の頬に見舞うことからはじめたのであった。
咲いたばかりの六枚花弁。
枯れるまで、ずいぶんとかかりそうであった。
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