永遠の恋
 僅かばかりの人生を歩んだだけで此の世の理を全て悟ったような顔をしていた。
 此の世に産まれ落ちてから、自分の意のままにならないことなど一つもなく、何事であって手に入れることができたから。
 全て、こんなものかと、落胆してしまうほどに。
 けれど、それをあからさまに表に出したことはない。それに師匠に対しては礼儀正しく振舞っていたし、相手が認められる人物であれば礼を尽くすのは当然であるから、修行場では皆の模範とされるほど優秀な弟子だった。
 けれど、友人には恵まれなかった。確かに皆の輪に入ろうと努力したことはない。大体、群れて行動することがあまり好きではなかったし、仲間の必要性を感じたことはなかった。
 近づいてきた相手を無視したことはないが、すぐに離れていってしまうのだ。そして、陰口を叩かれた。
 あまりに完璧でありすぎるから、俺達のことなど馬鹿にしているのだろうと――確かに何事であってもさほど難なく手中にできたが、努力を怠ったことはない。地道な努力を続けた成果であると、どうして分からないのか。
 敵意を向けてくる者も大勢いたが、反対に擦り寄ってくる者もいた。それと、遠くから羨望の眼差しを向けてくる者も、
 桃は自分が他人にとって理解しがたい人間であると自覚しておらず、その心の内を覗ける者など稀であり、対等の立場でいられる者など僅かばかりであるとは思ってもいなかった。
 もし、桃が友人が欲しいと熱望する気持ちを持っていれば、これまでの人生は辛く寂しいものであっただろうし、妥協することも学んだだろう。
 だが、男塾に入学するまでは、腹を割って話せる友人がいなくとも、苦にしたことはなかったのだ。
 そして、会得したいと望んでいた武術の奥義を極めてしまい、次は何処で何をしようかと考え始めた頃、男塾の評判を聞き、面白そうだと試しに出向いてみれば、噂通り時代錯誤な教育で、教官や上級生には絶対服従――想像していたよりも楽しめそうだとほくそ笑んだ。
 桃はそうして成績トップで入学を果たした有名進学校から男塾に転入してきた。進学校では入学早々すでに持て余しており、渡りに船の申し出とばかりに送り出したのだ。
 男塾では、何事も完璧に行っても、教官の機嫌の良し悪しで懲罰を食らうこともある。理不尽だとしか思えなくても、逆らうことなどできはしない。
 それが桃にとっては新鮮であり、些細なミスで殴られても腹が立つことはなく、仕返しをすることさえあったのだ。
 級友達は誰も彼も極悪な面構えをしていて、義務教育で習うことすら理解していない者の方が圧倒的に多く、それ故、授業内容は小学生並みで、それは退屈で仕方なかったが、居眠りをしていても当てられれば答えることなど欠伸をするより簡単だった。
 体力づくりが目的である教官達による扱きも、辛いとまではいかず、身体が鈍ってしまうのを防げるから有難かった。
 それらの事柄だけであれば、すぐに嫌気が差して去ってしまっただろうが、級友達とは離れがたいものを感じたのだ。
 いざとなれば頼りにされるが、普段は特別扱いされることなく、異端視もされない。
 皆、全くの自然体で接してきて、古くからの友人のように喋りかけ、優れた知識を披露しても、スッゲーな、で、終わらせてしまう。あまり物事を深く考えないのか、それとも他人の優れた能力を妬む気持ちがないのか、教えても子供のように感動してすぐに忘れてしまうのだ。
 しかしただ一つ、張り合おうとするものがあった。それは男気であり、それなくしては男塾にいる資格はないと――無鉄砲にも程があると呆れるほど、男気を示すためなら命も捨てる男達の集まりだった。
 九九を知らなくても、小学生で習うような漢字が読めなくても、誰もが自分を卑下しておらず、毎日、明るく笑っている。馬鹿騒ぎを繰り返し、仲間同士で助け合いながら、真っ直ぐに前を向いて歩んでいる。
 桃はその集団の中で過ごすうち、仲間の存在は人生において重要なものあり、馬鹿騒ぎをする楽しさを初めて知り、そんな仲間達と出会えたことを純粋に喜んでいた。
 その仲間になった者達の中で、特別に想う男が現れたのだ。
 桃が富樫に特別な感情を覚えたのは出会って間もない頃であった。
 富樫はパッと人目を惹くような容姿でもなく、女性のような綺麗な顔でもない。それどころか富樫は男らしく精悍な顔つきで、しかも傷までついている。
 その痛々しい傷跡にそっと触れてみたいと密かに思い、生き生きと輝く瞳が潰されずにすんで良かったと安堵した。
 富樫は顔の傷を誇りに思っていて、これはダチを助けるためについたモンだと語ってくれた。確かに事の次第は富樫らしく男気溢れるものであったが、桃は傷ついて欲しくないと思ってしまう。そう、誰かを庇って傷つくなど――今後、もしその場面に遭遇したならば、自分が代わりになりたいと願った。桃ほどの男が、容易く傷つけられるはずはないけれど。
 しかし富樫はそれを許す男ではない。自分の身に降りかかった火の粉は自ら払うに決まっているし、誰かを助けるために身を挺そうとするならば、邪魔をされれば烈火の如く怒るだろう。
 そうと分かっているからこそ、血の涙を流しても、富樫の生き様を見届けなければならないのだ。
 出会いは最悪といっていいものだが、富樫は自分の非を認め、男らしく謝罪を述べた。その時から桃は胸に芽生える何かを感じたのだ。
 乾ききった荒野のような胸に芽生えた恋は、日毎に募らせる富樫への想いを糧に育っていき、いつしか大輪の花を咲かせていたけれど。
 この恋は胸に秘めておくべきものと、何度も、何度も、桃は自分に言い聞かせた。
 そう、富樫との関係は親友で留めておくべきものなのだ。
 友情で結ばれただけならば、死ぬまで解けることはない絆であるに違いないが、そこに情欲が絡んでしまえば、縺れていつかは切れてしまうかも知れないから。
 それが何より恐ろしい。富樫との絆が切れてしまうなど、想像するだけで絶望の淵から果てなき闇へと堕ちていくように感じられる。
 これからも、ずっと、ずっと、傍で笑っていて欲しいから。
 肩を抱き合い顔を寄せ、下らないことを語り合い、桜並木の道を何処までも――その道は延々に続く一本道で、決して途切れることはない。
 秘めたる恋は表に出さぬよう、無二の親友である立場を貫き通そう。
 そしていつしか富樫は桃にとって聖域となる。





「アイツはお前にとって聖域ってワケか」
 騒がしい教室の片隅で、欲しい物は欲しいと、自らの欲望に蓋をすることのない男が笑いながら訊ねてきた。
 桃は皆と騒いでいる富樫から目を逸らし、隣に立つ伊達に視線を向ける。
「聖域?」
「当たってんだろうが。お前にとってアイツは特別なんだろ――穢しちゃなんねぇって、な」
「フフッ、だったらなんだ。そう想っていて何が悪い」
 開き直る桃の態度のふてぶてしさに、伊達はフンッと鼻を鳴らす。
「馬鹿じゃねぇのか、穢しちゃなんねぇなんて笑っちまうぜ。お前が手ぇ出さなくても他の奴が――そうだな、俺が奴に手ぇ出したらどうする?」
「無理強いでなければ、富樫の意思を尊重するさ」
「じゃあ、俺に穢されてもいいってのか」
「お前が富樫を想っているならば――それは穢すことにはならないだろう」
 富樫が誰かを愛することは当然で、幸せになればいいと願っている。可愛い奥さんに腕白な子供、きっと日本家屋の平屋の家で、座敷には丸い卓袱台を置き家族揃って食事をして。いつしか子供達も大人になり、娘がいたら嫁ぐ時には皆に知られぬ所で号泣するだろう。そして孫達に囲まれれば好好爺然として可愛がるに違いない。けれど、爺さんになっても、男気だけは忘れずにいて、いざとなればドスを手にして飛び出していくのだ。
 桃は自分の未来図などは全く想像せず、そうして富樫の幸せばかり考えて、穏やかな笑みを浮かべていた。
「だったら、お前は……お前は奴のことを」
「二人の関係に情欲を絡ませてしまえば、失ってしまうかも知れない。伊達、俺は富樫に永遠を求めているんだ――この先もずっと、切れることのない絆を保ち続けていたいんだよ」
 そう、ずっと、桜並木の道を何処までも歩いて行けるような――訪ねていけば、良く来てくれたと肩を抱いて喜んでくれるように。
「案外、臆病なんだな」
 桃ならばすでに手に入れる算段はつけているものだと思っていたが、まさかそんな答えが返ってくるとは思いも寄らず、伊達は小さなため息をつく。
「それが、恋ってモンだろう」
「恋か――そんな青臭せぇ言葉、お前の口から聞くとは思わなかったぜ」
「永遠の恋をしていたい。いつ、いつまでもこの胸に咲き続けるように……」
 伊達はまるで夢を見る少女のように恋を語る桃の姿を見て思う。そうして富樫を特別な存在として扱うことの無意味さを。どうして桃が気づかないのか不思議だった。ほら、富樫はこちらを気にしている。桃の傍にいると富樫がチラチラと視線を向けてきて、その瞳には嫉妬の色を浮かべているのに。
 二人が相思相愛であるのは間違いなく、誰の目にもそう映っていた。
 桃の澄んだ瞳には富樫にだけフィルターでもかけているのか、その熱っぽい視線を遮断するような。
 誰かを恋い慕うことなどなかった伊達はその幸せを知らずにいて、桃が浸り続けていたい幸福を理解することはない。けれど、富樫の切ない想いは痛いほどに感じてしまうのだ。
「俺には理解できねぇな」
 伊達の呟きに、桃はフフッと笑い、そして彼にしか見えない桜並木の一本道に思いを馳せて、「お前も恋をしてみれば分かる」と告げたのだ。