最後のシングルナンバー
泣いてんの、桐生チャン?
泣いてません。
泣いたらエエ、泣いたらエエんや、ワシの胸で。
泣いてません。
そんなら、ワシが泣こうか。
泣かなくていいです、
なんでや。
アンタはそのままでいてください。
桐生チャン。
はい。
それはプロポーズ?
違います。
遥はその夏、プールへ六回、海へ一回、祭りへ一回、キャバクラへ二回、賭場へ一回、地下競技場へ二回、あと危ない所へ四回ほど連れて行ってもらった。その
うち何回かは遥がねだったものでも、桐生が誘ったものでもどちらでもなく、連れられて行ったもの。さらわれていったものとも言う。
盛りだくさんの夏休みだったが、日記に書けるものと書けないものをより分けると書けない方が多くて物足りない夏休みのようになってしまっていた。
夏休み最後の日、桐生に連れられた遥は東城会に居た。もちろんこれも日記には書けない。八月三十一日、晴れ、何も無し。
しきりに桐生が詫びるので遥はちょっと探検してくると言って傍を離れる。
(謝らなくてもいいのに)
遥は内心不服だった。遠慮しすぎる桐生はたまにけっとばしてやりたくなるぐらいの時があると憤慨していた。
桐生から見れば本当に遥は小さいし、弱い。その小ささや弱さが即死に繋がってしまう桐生があわれで、そして自分を含めて無性に腹立たしい。
「おっ、桐生チャンやないの。どうしたんやこんな、いつも呼んでも来んくせに」
「真島の兄さん」
真島の兄さん、と桐生が呼ぶ。遥は桐生の顔を見るために顔を上げた。見上げた先にある桐生の顔は懐かしいような、それか確かめるような、とにかく遥にはわ
からない顔をしている。
桐生の周りにはいつも人がいる、そしてその顔ぶれはじわじわと、あるいは急に入れ替わってしまう。人が来て、減って、また増える繰り返しは続いていた。
番号を割り当てるのなら一番に由美、二番に錦、三番に風間あたりがくるだろう。この三人は番号を割り当てるよりも、横並びのようなものに近い。
そこへ遥や、麗奈や、大吾や、伊達や、花屋や、神室町だけではなく大阪や沖縄の人間に至るまで次々と番号が割り振られていく。空いた番号に詰め込むわけで
はないのでいなくなったらそこは欠番になる。
真島は希少な古いナンバーを持っていた。
もしかしたら残っているナンバーで一番古いのかもしれない。
「ほなな」
他愛ないやり取りが済んで、真島はほなと右手を上げて去っていく。
「真島のおじさん」
遥は小走りに近寄ると真島を呼び止めた。
真島は全てわかったような顔で立ち止まると振り返って、
「心配せんでもエエでー、おじちゃん強いさかい」
気味が悪いぐらいに底抜けた明るさの、真っ白い歯を見せた笑い。遥も笑った。
(よかった、真島のおじさんはわかってる人なんだ)
嬉しかったのでもう一度遥は呼んだ。
「真島のおじさん!」
「おう、どや、ハムカツ食いに行こか。おじちゃんオゴったるで」
「えへへ、じゃ、おじさん呼んでくるね」
「アカンアカン、デートやさかい。保護者同伴はヤボっちゅーもんや」
「えー」
「アンタ何言ってんですか」
「おっ」
桐生の大きな手のひらが、いきなり遥の頭へ降ってきた。バスケットボールでもかるがると持てる手のひらなのだから、遥の頭は容易に収まってしまう。遥は桐
生のベルトへ指を引っかけた、そう言えば出会ったばかりの時は木登りをするようにして太ももへしがみついていたのにと思いだす。
身長はだいぶ伸びていた。
「あんまり危ない事教えないでください」
おや?遥は寄り添った桐生の顔を見上げる。桐生は何やら勘違いをしているようだった。しかし危険から遥を守ったあの時の勇敢で頼もしい顔と言うよりも、な
んとなく眉尻を下げた情けない顔をしている。
「あん?ワシがいつ危ない事教えたっちゅーんや」
「つい先週、遥をホストクラブに連れてったのはアンタでしょうが」
「わかってないなぁ桐生チャン、女の子はカッコエエ男が大好きなんやで」
「遥はまだ子供なんです」
遥が口を挟んだ。もめるのは百も承知、むしろもめてほしいぐらいだった。
「私子供じゃないよ!みんなかっこよかったよー」
「ほれ見い、遥ちゃんわかってるやないか!」
真島もどこまでわかっているのか、それとも素なのか。わざわざ偉そうに腕を組んでのけ反るようにしてカッカ、と笑った。大口を開けて笑うと奥歯の銀歯が見
える。
「おじさん、ドンペリコールやってよー」
ひやりと桐生の顔が青ざめた。真島は桐生の傍へ近づいて、顔をくっつけるようにしてン?ン?と顎を突き出しながらにやにやと笑う。
「アンタ……真島の兄さん、アンタもしかして……」
「おう、行ったでー……アダムにな」
「おじさんのホスト、太ったおばさんがね、ものすごかったって言ってたよー」
桐生の顔色がさらに青ざめる。
「遥、そのおばさんて」
「えーとね、ナントカの社長だって」
「俺が優しく包み込みますよやて、桐生チャンやらしなー」
手にした煙草を取り落とした。真島と遥は顔を見合わせて笑う。
「……は、遥」
「すごかったんやで、店のオトコ共ぜーんぶ野球拳でマッパにしてしまいよった。天性の女王様やな」
「あー、真島のおじさんそれは内緒って言ったのに!」
「おう、スマンスマン。ほんでな桐生チャン、」
「おじさん」
二人は声をそろえて、
「ハムカツ」
と言った。ぴったり声がそろい過ぎて、二人はまた同じタイミングで笑いだした。
「兄さん……!!」
「おっ、桐生チャンが怒りよった。逃げるで!」
「うん!」
遥は真島の首へ腕を回す。桐生よりも細い筋張った首、尻を抱え上げてくる腕も細くて、しかしワイヤーのように硬かった。桐生とはぜんぜん違うのだと遥は納
得顔で頷いてしがみつく。
桐生は遥のどこを触ったら『悪くない』のか考えすぎて、逆に意識させてしまうところがかなりあった。今の真島のようにガッと適当に抱いてくれるのが一番意
識しないで済む。
「遥!兄さん!」
「いやーん!捕まえてごらんなさーい!」
真島が茶色い声を出した。
「何馬鹿言ってんですか!」
そう言いながらも律儀に追いかけてきてくれる桐生のドヤドヤとした足音。遥は笑い出す。
「おじさん!助けてー!あはははは!」
「遥ァアア!!」
最後のシングルナンバーはたぶん、きっと大丈夫。
八月三十一日 晴れ
おじさんと、真島のおじさんとハムカツを食べました。おじさん達はビールを飲んで、お店が壊れかかりました。
「……えっと、」
遥は最後を消して、
おじさん達はビールを飲んで、とても楽しそうでした。私も早く飲んでみたいです。
「えーっと、」
遥はまた最後を消して、
おじさん達はビールを飲んで、とても楽しそうでした。
「うん、これでよし!」
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