地獄、変
「地獄の本読んでてん」
龍司は桐生にそう言った。
病院のベッドの上へ布団をはね散らかし、似合わぬパステルブルーのパジャマの裾を捲り上げ、脛毛丸出しに片膝ついただらしのない姿の龍司は歌舞伎役者のよ
うだった。どこが歌舞伎かと言えば女にだらしのなさそうなところ、そんな説明になっているようななっていないような事を桐生は思う。
その日もベッドの上には臆面もなくいやらしい本が広げて置いてあった。龍司の趣味は年齢にしてはまったく親父趣味で、それは桐生がもっともよく知っている
とも言える。ええか〜ええのんか〜と冗談でもなく本気で言い放った男を桐生は笑っていいものかその時は本気で考えた。
無茶振りからの甘え、よくあるパターンにその日も桐生は乗った。
ここの看護婦はアカン、オバハンばっかりや、
「せやから、な」
龍司は渋い顔で桐生をねだる。なにがせやからだ、ナースじゃなくて悪かったな、桐生が言えば、こないにゴツいナースおるかいと茶化される。な?ねだる声だ
けあまったれていて、それが桐生にもかわいい。かわいげの見せ方を心得た男だった。
抱き合う。
そうしてしまえば怪我を忘れてしまうようだった。お互いにそれはそうで、特に桐生は手加減なくしがみつく。龍司にはそれが嬉しい、埋め合うのではなく食い
合うように抱き合える唯一の相手だと思っている。
散らばって、犬猫のように四つ足になった桐生の膝の下で汗と一緒によれるいやらしい本のうちの一冊は、桐生が届けたものだ。いやらしい本をベッドの下へ投
げ捨てながら龍司は笑った。
生殺しもええとこやで、ホンマ。アホちゃうか、こんなん持ってきといて大人しく帰す思てんのかいな。
帰そうとしたら殴ってやるところだ、息を乱さず一息で桐生は顔も見せずに言ってのける。
龍司がふっと息を詰めた、分厚い手のひらが桐生の脇腹をなぜた。押し入る。
桐生の前足が崩れて、頬からベッドに突っ伏する。ちょうど開かれた本の真ん中へ顔を突っ込んで、それがカラーページだったものだから薄く汗をかいた頬にへ
ばりつく。
それで目の前が真っ赤になった。以前に刺された時と同じような極彩色、誰にも説明のできないあの風景が目の前に広がる。
本当は赤でもない、白でもない、紫かもしれない。とにかく色が目まぐるしい、毒々しくて忌まわしいのに心ひかれる見憶えのある光景の中で桐生は唸った。
「地獄の本読んでてん」
龍司は桐生にそう言った。
入院患者なら誰しも入り用になる新品のタオルで身体をざっと拭い、同じく新品の下着に脚を突っ込んだ桐生は色気も何もなかった。どうして無いかと言えば龍
司はその日既に一度自分で処理をしていた上に、今二度も桐生の中に、正確にはコンドームの中に精子を出したからだった。つまりは満腹の状態にあった。
「あ?」
「インクうつってんで」
桐生の頬には赤と白と紫と、それから腐った緑のような色が混ざり合ってへばりついていた。龍司はそれな、と桐生の顔を示して、
「それ地獄やねん」
すっかりぐしゃりとひしゃげた本はよく見れば雑誌の類では無く、タイトルにはそのものずばり地獄とあった。
「引っ越す先ぐらい見るやろ」
「馬鹿か」
「将来設計や」
似合わない事を言う龍司を、まるきり呆れを隠しもしない顔で桐生は見た。龍司は分厚い面の皮でその視線を叩き落して、新居の間取りでも言うように、
「閻魔の首とったら、ワシが地獄面白うしたる」
子供の戯言の軽さ、子供の空想の自由さ、心地よく耳を傾けながら桐生はベッドに窮屈に寝そべり、あくびをかみ殺した。プールからあがったばかりのような気
だるさを味わえる贅沢は、平和の証でもある。
「じき行くんや、そしたら地盤固めが肝要やで」
「難しい言葉知ってたな」
「茶化すなや、泣かされたいんか」
さっき泣かされたよ、桐生が臆面もなく言い返すと龍司はムムと漫画のように唸った。年の功というものだった。手折る前に折れられて、龍司は手のやりようが
ない。
「そんで先行った奴らおるやろ、そいつら集めてな…」
「地獄で国盗りでもする気か」
くにとり、
古臭い物言いをした自分を桐生はかすかに笑った。風間のおやっさんが見ていた時代劇、ああした記憶はこうして言葉の端によみがえる事もある。
「そうや、ユートピアや」
「ユートピア」
龍司が太い笑みを浮かべて、寝転ぶ桐生の尻をなぜた。
「たっかい尻やで、ほんま。この尻のために地獄ひっくり返したろって気ィになったわ」
「アホウ」
以前の桐生ならば間違いなく馬鹿野郎と言っていた。だが関西人の多くに当てはまるように馬鹿よりもアホを、更に言えばアホウと言う龍司の影響が見える。
よみがえったり、影響を受けたり、
まったく一人じゃ生きられない。そのうち遥も自分のように汚い物言いをするようになるのだろうか、桐生はにわかに不安になる。
「先、行ってんで」
じわじわあふれだした眠気を放り投げて桐生は不機嫌に鼻を鳴らす。
「俺が先かもしれないだろうが」
「あん?ほんならどっちでもええわ、そんなら先に行った方が地ならししとくっちゅうこっちゃ、ええな」
ワシらのユートピアのためや、
あんまり真面目に言うので桐生は笑ってしまった。先に行く気満々なところや、他のいろいろ、どうでも良くなってしまった。
「アカン、そろそろあのオバハン来るで。とっととパンツ履いて帰れや」
「言うなら尻から手を離せ」
目指せぼくらのユートピア、
赤は薔薇いろへ、青は空色、白は雪白の、紫はすみれへ、緑は萌え芽吹き、
めまぐるしく踊れユートピア。
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