もちろん水着は競泳用
遥ってのは賢い。そう俺に桐生さんがうるせぇぐらいに
言ってるが、確かに賢い。
だがよ桐生さん、賢いってのはわかりすぎるって事なんだぜ?
わかってんのかよ。だらしのねぇ顔して。
アンタいっつも間に合わねぇだろが。
親父の仏壇に転がしてあったメロンを手土産に、俺は桐生さんが暮らすマンションを訪ねた。お袋からは文句はないだろう、お袋はキウイやパイナップルそれか
らメロンを食うと口の中がかゆくなってかなわない体質だから。俺は違うから遠慮なくもらう。
スーツじゃなくてジーパンにシャツで、車も断る。プライベートだった。
東城会の行く末とか、今後の神室町の動向や、それから海外組織とか、そういう面倒ごとは全部忘れて、親戚の兄貴を訪ねるような気持ちで行きたい。
真島の叔父貴に言わせりゃ、そんなホホエマシイものちゃうやろなんて言われちまいそうだ。実際そうだけど。
そうした気持ちを出すのは外でやりたいと思ってる。あのマンションは家庭だ、お袋を泣かせ放題だった親父ですら家庭にそういったものは持ち込まなかった。
もちろんほめられた事じゃねえが。
適当に足につっかけてきたサンダルの靴底が焼けそうに暑い。日があたる腕や首の後ろが熱い、俺がガキの頃は真夏日しかなかったのに、今じゃ猛暑日に酷暑日
なんてものまである。とにかく暑い。
コンビニまでメロンは白い網に包まれたのを直に持っていって、ペットボトルを買った袋に入れさせる。チャラい店員が何だコイツって顔をしてきたので睨み付
けたら動きが三倍速になった。最初からそうしろよ。
「ありがとうございました!」
久しぶりにコンビニであざーす以外を聞いた気がする。というよりコンビニを使ったの自体が久しぶりだ。
やけに荷物の多い学ランが歩いてく、そうか、今日終業式か。
こんな街だけど普通に学校もあればガキもいるんだと思ったが、よく考えてみりゃキャバ嬢ソープ嬢から俺らヤクザまで、ガキを作りたがる人種が人一倍多い街
でもあった。俺がガキの頃だって俺の他にヤクザのガキはいた。
にしてもあっちーな、桐生さんちクーラーあったかな。
どうせ暑いんだか寒いんだかわかんねぇような顔してんだろうけどよ。いつものスーツで。
だいたいあの人どこだってスーツじゃねえか。脱ぐか着るか。ロボットか。そういや刺されてもピンピンしてたな。
その後ろ頭には見覚えがあった。七割がた当たりの自信も、声をかけてもいいだけの関係もあった。
けど、俺はオフとはいえヤクザで、相手が女でしかもガキだから慎重にならなきゃいけねえ。
マンションへの通りにある公園で、ブランコに座ってる遥(おそらく)を後頭部を見つけた俺は慎重に近づいた。他にもガキが何人か遊んでて、ヤッカイな事に
そのババア共も一緒だ。下手すりゃ通報だ、
「………おい、」
声をかけて俺ははじめて、オイとかなあとかでしか会話した事のないのに気づいた。ほとんど桐生さんを間に挟んで、最低限しか話していない。
普通ガキでも女は呼び捨てにすればうるさいだろう、だけど遥ちゃんなんて呼ぶのはこっ恥ずかしい。
「………あ、」
遥がブランコごと振り返った。錆びた鎖がぎーぎー鳴る。
「大吾の、」
声を詰まらせた遥に、俺は遥も俺と同じ状態にあることがわかった。何と呼んでいいのかわからないんだろう。大吾さんか?いや、大吾のって言ったな。そうい
や桐生のおじさんって呼んでたんだっけか?真島の叔父貴は真島のおじさんだったな。
って事は大吾のお兄さんか大吾のおじさんか。おじさんは勘弁してくれよ。
「大吾でいい」
「大吾さん、こんにちは。おじさんはもうすぐ帰ってくるよ」
ブランコから立ち上がって遥は俺に軽く頭を下げた。前にあった時よりも日焼けして見えた、むき出しの腕が赤くなっている。背負ったランドセルがピンクで、
いつから女は赤で男が黒じゃなくなったんだろうと俺はそんな事を思う。
そして遥は若い奴らよりよっぽど飲み込みが早く俺に笑って見せた。
「そうか。明日から夏休みか」
遥の足元には朝顔の鉢植えがあった。こればっかりは俺のガキの頃と何も変わらねぇ。他に荷物らしい荷物が無いから、やっぱり要領がいいんだろう。俺は最後
の日に荷物いっぱいいっぱいで、組の若い奴に荷物を持たせて得意顔の恥ずかしいガキだった。
「うん」
「良かったな」
良かったな、意外に俺に言える事は無ぇ。キャバ嬢か、舎弟の女ぐらいしか女とは喋らねぇからなんて言っていいかわからねえ。
「………」
遥が黙った。困ったように口を閉じて俺から目をそらす。
何かあったな、カンだったが俺にとっては悪くない。
「何かあったのか」
「………」
「桐生さんか」
「………」
遥にとって何かあったって言えば、っつーか俺が遥についてわかってる事は桐生さんの事ぐらいだった。
それでその想像は当たってたみたいで、何か言いたそうに目をぱちぱちさせている。
「どうした」
「明日友達皆と市民プールに行くの、ちょっと困ってるの」
「いいじゃねえか」
何が悪いんだ。と、滑り台の向こうでババア共がヒソヒソ話しながらこっちを見ているのに気づいた。
俺はなるべくあいそよく見えるように笑って頭を下げると、向こうは罰が悪そうに引きつった笑顔を返してくる。お袋ゆずりの顔でよかった、親父みてぇな強面
じゃ面倒だったろうな。
「私が付き添い頼んだら、おじさんがいいよって言ってくれたの」
「よかったじゃねえか」
さっきとまるで変わらねえ、つまらねえ答えを返した。
何がいけねえんだよ、ダチとプール行って、ガキだから付き添い頼んで、それにオッケーが出て。
「………」
遥はにぶいなあ、とでも言いたげに俺を見上げた。遥と俺とは四十センチは違いそうに背が離れている。
小せぇなあ。
「大吾さんもわからないの?おじさんはヤクザだったんだよ」
言われて俺はようやく、あの人の見事な彫り物を思い出した。思い出したのは暑さとセミの声もで、一気に汗が噴出してくる。
それで、大吾さんも、って事は、
俺の言いたい事がわかったらしく、遥はため息をついた。
「そうだよ、おじさんもちろんいいぜってオッケーしてくれたんだけど…たぶんおじさん、プール行った事ないんだよ」
「ああ、だろうな」
銭湯でもありゃ別かもしれねえが、神室町にはスーパー銭湯が一軒あったが別にわざわざ行く事もねえ。ソープだって普通はヤクザお断りだが、東城会の四代目
を断る店なんかねえだろ。
なによりあの人には、
「桐生さん、ヤクザな事気にしてる割には抜けてんだよなあ」
「頼んだ私が悪かったの。おじさんきっと、すごく私に謝るでしょ」
「謝る?」
ピンとこない。遥はわざわざ首を傾げて俺に説明した。
「だからね、プールでヤクザの方はちょっと、って言われるじゃない。友達の前で。そしたら私がヤクザのおじさんの娘だって友達にわかっちゃうでしょ、そし
たらおじさんすごく悲しくなるよ」
「ああ、そういう事か」
「私ね、友達にはおじさんの事話してるよ。でも私から友達の誰もおじさんがヤクザだって気にしてないよって言えないじゃない」
だから困ってるの、遥は繰り返して言った。
参った。
俺はまったく、遥には参ってしまった。大人だ、俺の舎弟より、ヘタすりゃ俺より大人かもしれない。
「よし、俺に任せろ……明日は何時だ?」
「十時」
「開場は」
「九時」
だけど遥、俺は大人だ。それもちょっと汚れてるが、立派に大人なんだ。大人の力を見せてやるぜ。
見せたいのは桐生さんにだろ、そんな俺の正直な声が聞こえてるがいいじゃねえか。
夕方に六時になって、頭上からの暑さはやわらいだ。しかし熱くなったアスファルトが放つ熱はまだまだ冷めない。
「遥、このメロンどうした」
桐生は職安帰りの汗をシャワーで流して風呂場から出てきたところでさてビールと、冷蔵庫のドアを開くと見慣れぬ果物があった。
狭いキッチンから、ベランダの遥へ声をかけ尋ねる。
「もらった。大吾さんに」
ベランダに出て朝顔のつぼみの数を数えていた遥は短く答えた。大吾、出てきた名前に桐生が真っ先に感じたのは懐かしさや親しみではなく残念ながら不穏さ
だった。それも近頃の東城会の荒れようでは仕方のない事でもある。首にタオルをかけながら桐生は男パンツ一枚仁王立ちでしばし考え込んでから、やおら携帯
電話を探し出す。
「そうか、何か困った事でもあったのかもしれないな。電話してみるか」
「ううん、困ってたのは私のほう。大吾さん今度また遊びに来るって」
色鉛筆をスケッチブックへ走らせながら答え、それから、
「そうだよおじさん、大丈夫だって言ってたよ。それよりメロン食べようよ。冷えてるよ!」
観察を終えた遥が嬉しそうにそう言うものだから、桐生はいそいそと新聞紙をテーブルへ広げ出した。
そういえば遥が何か困ったと言っていたようだったが、遥がせかすうちにそれは桐生の脳内から忘れ去られる。
夏休み初日、これ以上ないほどの快晴。
その日市民プールは開場と同時に次から次へと黒塗りベンツから降り立ったあふれ返る程大勢のヤクザ達に押し切られ、午前十時の時点では彫り物だろうが小指
が無かろうがオールスルー状態となっていた。子供たちは色とりどりの彫り物を指差しては母親を怯えさせたが、ヤクザ達はみなにこやかで人あたりよく接して
いたので雰囲気は昼を前にして次第にほぐれつつある。市民プール周辺で焼きそばやカキ氷の屋台を出し、これまた子供が喜ぶ。
遥と友人達の付き添いに来場した桐生はそこで何故か、同じく市民プールへ遊びに来ていた大吾と偶然にも再会し、ちょうど組員の慰安会だったのだと聞いた。
「なんだその水着」
大吾は終始上機嫌で、ちいねこ(三毛)の海水パンツにゴーグルと黄色いキャップという気合十分の桐生を涙が出るほど笑った。指をさして、腹をかかえてまで
笑った。涙が浮かぶほどに笑って最後は空気漏れのような声を上げながら笑い悶えた。
なにしろいつでも全力投球の桐生としては、ただただムッとするしかありようがない。
しかし遥がすごく楽しかったよおじさんと言ったので、すべてはそれでいいのだ。
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