十二時の男

築二十七年だという、古いマンションは四階建て。立地は 悪くないので周りにぼんぼんと大きな建物が建って、見下ろされている。
奇跡のように陽が差し込む部屋に、桐生は住んでいた。
一人だった、そこへ遥が移り住んでくる。桐生は一人には広すぎる2DKを借りていた自分にはもしかしたら先見の明という奴があるのかもしれないとひとり得 意な気持ちになる。
その家にはしばらく住んだ。

遥が、
「おじさん、明日の朝はオムレツよ」
名前書いてあげるね、そう笑っておやすみを言った。

遥が、
「おじさん、今日の朝はスクランブルエッグよ」
明日こそオムレツね、そう謝っておはようを言った。

そのうちスクランブルエッグがだんだんと形を成して、ついにオムレツと呼んでもいいものができあがったのはちょうど三週間だった。
遥はおじさん、はやく食べて!と桐生に急いでスプーンを押し付け、それから、
『おじさん』
とケチャップで手早く書いた。どう見ても『みしいさん』だったが早く早く、冷めちゃう!遥の迫力に押されて桐生は次から次へと口へ運んでほお張った。
「うまい」
ろくろく味わえもしなかったが、大げさに言えば魂がうまいと言っている。桐生はウソをつけない男で、遥はそれをよく知っていたからとても喜んだ。
桐生も喜んだ。が、喜んだのもつかの間、
「おじさん!写メ忘れちゃった!」
タマゴのかけらだけが散った皿をじっとりもの惜しげにながめ、それから二人そろって大笑い。
遥はサの日初めて、夜もオムレツを作った。普段大人びている遥が見せた子供らしさに桐生もなぜかほっとした。極道ものの自分と暮らすことで、遥には背伸び を強いてはいなかったかと内心心配していた。しかし朝よりいいできばえのオムレツをとっておきの大きな皿へうつして、
「めしあがれ」
とスプーンを手渡す遥の顔に曇りは見えない。桐生は胸焼けするほどオムレツを食べた。遥は童話に出てくる小人のように次から次へとオムレツを焼いた。
それをはじから平らげて、途中で思い出したように写真を撮って、遥も食べて、
翌朝二人揃ってすこしむくんだ顔をした。
残っていたオムレツが、二人を出迎える。


そのうち遥も手馴れてきて、二人分のオムレツは大きなオムレツを切り分けるほうがやりやすいということを覚えた。
巨大な三日月型のオムレツを半分に、それぞれ取り分ける。
この日は三等分にオムレツはわけられた。
普段遥より大きいぐらいの半分をぺろりと平らげる桐生にはきっと物足りないだろうなと遥は思いながら、フライパンの上でフライ返しを使って切り分ける。中 身はひき肉だったのでぼろぼろとこぼれてしまうのが遥には残念だった。特に真ん中のオムレツは両端が切れているのでひき肉は盛大にこぼれる。
とにかく三つに分かたれたオムレツをそれぞれ皿へとうつす。二つは同じデザインの丸皿で、縁取りが青とピンクのもの。もう一つはサイズが小さく、酉皿に普 段は用いられる皿。

「その真ん中の、それへ」
小さな、醤油皿より一回り大きい程度の皿へ遥は桐生が言うがまま両端を切られたオムレツを載せた。和柄の皿で、こうして見ると和風玉子そぼろ炒めのよう。 青い縁取りの桐生用、ピンクの縁取りの遥用の皿へオムレツはうつされ、それからちゃぶ台へは桐生が運んだ。



「おう、なかなか美味そやないか。嬢ちゃん大したモンや」
普段十二時半の格好で桐生と遥が囲むちゃぶ台に、その朝は八時と十二時と四時に座布団があった。そのうち一つは使われた形跡があまりなく厚みがあった。
厚い座布団にどっかり胡坐をかいた、十二時の男。

「こんな早朝に尋ねてくるもんじゃねえ、………龍司」
「飯時狙って来たんや、当たり前やろ」
郷田龍司。
死んだ男が大いに笑った。遥は厚切りのパンの皿を龍司におずおずと差し出し、龍司は平然とそれを受け取る。
「遥」
「おじさん座って、ご飯にしよ。そっちのおじさんも、あの時は助けてくれてありがとう」
「……遥」
眉尻を下げて、なんともいえない顔で桐生はしぶしぶ腰を下ろす。それを見た龍司は大きくのけぞり、膝を打って笑った。

「なんや、アンタ嬢ちゃんの尻ィ敷かれてんのか。躾もええ。オマケに美人や。……ほんじゃ、いただきます」
調子よくまくし立てて分厚い手のひらをぱん、とあわせ龍司は朝飯開始を告げる。
お前が仕切るな、そう睨みをきかせておいて桐生と遥もそれに従った。

普段朝飯の間はニュースをつけることにしている。それはNHKの味気ない、静かなニュースだった。桐生と遥は今日の予定やら、天気や、晩飯のおかずやらを 話す。それは普通の家庭よりドラマのような作り物くささを少しはらんでいたが、もともと親子ではない二人はそうして距離をつめようとしているのだった。
しかし今日のところは、気まずい沈黙がただよっている。
気を利かせた遥はリモコンを操り、バラエティ色の強いニュースへ切り替えた。騒々しいぐらいのアナウンサーの声が、

『ミレニアムタワー爆破などに関連していると疑いのある、近江連合会系暴力団組織幹部が先ごろ狙撃され病院に収容されておりましたが、本日未明その病院か ら失踪いたしました。警察は報復もしくは脱走、両方の可能性があると見て…』


「せや、」
トーストをすっかり平らげていた龍司はニヤリと笑い、世間一般からしてみれば趣味が悪いと言わざるを得ない柄シャツを捲り上げた。そこには真新しい白い包 帯がぐるりに太い胴へ巻きついている。
「ワシな、病院抜け出して来たんや」
悪戯っぽく笑ってみせると子供のように年若くなる、しかしどこか獰猛そうな笑顔。遥の顔がこわばった。さきほどまで物怖じをした様子はなかったが、龍司に なにか不穏な空気を敏感に嗅ぎ取ったらしい。

「安心せえ、なんもせえへん」
「それならなんだって」
「お別れ言いに来たんや」

桐生が一瞬、言葉を呑んだ。その様子をいかにも面白そうに龍司は唇をにっと歪めて見守る。
「何さみしそーな顔しとんねん」
「してねえ」
あー満腹や、と腹をさすって龍司はあぐらをといた。脚をながながと伸ばす。腹をらしくないほど丁寧な手つきでさすりながら、龍司は目を細めた。
どうやら眠気が身体にまわっているらしい。むぐむぐとパンくずのついた唇を尖らせた。
「心配せんでも、ちっとの辛抱や。ケガ直ったらすーぐ再戦や」
「なら病院で大人しくしてろ」
気だるい龍司の言葉に桐生は厳しく応じた。

「沖縄、行くんやろ。聞いたで」
ぽつりと言って、龍司は閉じていた右目を開くと桐生を片目で見た。
(それを聞いて、それで抜けてきたのか)
桐生は問えなかった。
そして龍司はややしばらくして帰っていった。遥に笑い、桐生を笑い、
「ほな、また」
「またね、龍司のおじさん」
「おにいさん、や」
遥が笑って、桐生は笑えず、言葉も言えず。
ほな、また。
その言葉だけで何もかもが十分に桐生には思われたのだった。



角を曲がると龍司は待たせていた車へ乗り込むなり深い息をついてシートへ沈んだ。脂汗がじんわりと浮かんで目がくらむ。指先はすっかり冷えてしまってい て、食べたものをすべて吐き出したいほどの吐き気が襲っていた。
「……沖縄言うたら、オリオンビールや」
うまいやろな。
青い青い海の側で、吹き上がる銀色のような白い泡。
喉にしみる苦い炭酸。
手指が張り付きそうなほど冷やしたジョッキ。
朦朧とし始めた意識の中で龍司は小さく、喉を鳴らした。

モクジ
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