海の果て、黒い涙

桐生は出掛けにボールペンを胸のポケットにさすように心 がけている。
何もインテリヤクザを気取るわけではないが、
「いざって時になりゃ、ボールペン一本で五人を倒せるんだ」
そう昔風間が言っていたのを聞いてからだ。風間も風間で、昔映画で見たのだと笑っていた。
使う機会は無かったけれど、風間は一年前に死んでしまったけれど、それでも桐生は出掛けにスッとボールペンをさす。
その日もそうした。


大分寝坊をしたらしかった。とっくに太陽は最高点を通過している。昨晩真島に付き合わされて深酒をしたのがいけなかった。
深酒は桐生も得意とするところだったが、桐生がザルなら真島はワクだ。ワクに定めることすら間違いのような気がする。
そうしてたっぷり寝坊をした土曜日の、午後一時。二日酔いではあるが、頭痛や吐き気やだるさなどはない。
賢い遥は昨晩深夜になって水を吸い込んだゼラチンのようになって帰宅した桐生の上着を脱がせ、水を飲ませてベッドまで肩を貸した。
その遥の姿は影も形も無い。冷蔵庫にはちぃ猫のメモがぺったりと貼り付けられていた。
『おじさんへ 学校行ってきます。ごはんは冷蔵庫に入っています』
遥の伸びやかな文字が記されたメモの通り、玉子焼きとおにぎりが二つ冷蔵庫へ入っていた。そばにタコのウインナーがあったのはおそらく遥が弁当に入れた残 りだろう。端は遥が食べたらしい、遥は常々玉子焼きは端っこが一番あまくて美味しいのだと言っていた。
今日は土曜日だから、午前中までしか授業は無い。何か用事でもあるのだろう。そういえば合唱コンクールの練習が忙しいと聞いた覚えもある。
ともあれありがたく桐生はそのおにぎりを食べた。一つが米一合はありそうな大きなものだったが、やすやすと桐生の腹へと収まる。
「さて…今日は呼ばれてるんだったな」
遥に言われた通り、使った皿は桶へ水をはって、そこへ突っ込んだ。洗うと言っても遥は聞かなかった。
さて出かけると言う段になって、いつものように桐生はボールペンを探した。普通は電話の横へ置いてある、が、その時は無かった。
普通の家庭ではない、ボールペンなどいくつも置いていない。首をひとつ傾げて探す範囲を広げて見れば、テーブルの端にいつもとは違う少し太めのボールペン があった。どうやらサインペンらしい。別にボールペンでなければいけないというわけでもないので、それを桐生は胸ポケットへさした。


外はしたたるような暑さの真夏で、しかも午後ともなれば遠慮なしのにごり無い直射日光が差している。
桐生はその広い背へ日光を受けながら東城会の本部へと向かった。途中でタクシーへ乗り込むとおっそろしい程に冷えていて、噴出していた汗が一気に毛穴へと 戻っていく。独特のにおいも冷えた空気の中では縮こまっていて、白いシートカバーのせいもあってかなぜだか全てがとても清潔そうに見える。
「冷えてるな」
思わずそう言うと、初老というよりは既に七十近いように見える運転手は桐生の面体を見ても物怖じをしない性格なのか、
「冷やしちゃいけねぇのは男女の仲ってね」
わははは、としわがれ声で笑った。江戸っ子かもしれない、ひやし、がしやし、となっている。
「フッ…東城会本部まで頼む」
「はいよ、お客さんヤクザかい」
これにはさすがに桐生も面食らって、
「まあそんなもんだ」
正直に答えてしまう。運転手は目を細めて、
「ははは」
笑ってラジオをつけた。ラジオからは野球の実況が最初かかったが、運転手は桐生にはとても不似合いなクラシックの番組へ変えた。野球は好みがあるから、頼 まれない限りはタクシー運転手はつけないものだとよく言うが、それにしてもクラシックはちぐはぐだ。
それでも居心地が悪くは無く、桐生は東城会本部まで一言も口を開かずうつらうつらと少しまどろんだ。


「それサインペンじゃねえよ」
大吾に言われて、桐生は懸命に引っ張っていたキャップから手を離した。
「え?」
「まったくしょうがねえな、それ、サインペンじゃねえよ」
繰り返しそう言い、大吾は桐生の手にしたそれを指差した。
「…これがか?」
桐生は掌でころりころりと家から持ってきたそれを転がす。ペン以外の何者だと言うのだろうか、試みに桐生はもう一度グッと力を入れてキャップを引いた。
「あっよせ、あっ、あ」
大吾が慌てて腰を浮かせたが遅かった。人類最強の呼び声も高い桐生の力で引かれたキャップは、中でぼきりと嫌な音を立てて外れた。
「………アンタ、どんな蓋も右回ししかしねぇタイプだろ…」
あきれ果てたように大吾は浮かせかけた尻をそのままソファへと下ろす。桐生はいぶかしむように目を瞠って、そのキャップを引いた。
どろりと何か黒いインクのようなものをまつわりつかせた棒がずりずりと引きずり出されてきて、桐生のスーツの袖を汚す。
「チッ、ちょっと待ってろよ。ティッシュティッシュ」
結局立ち上がることになった大吾は自分の机まで小走りにかけると引き出しを開き、中から金融機関の広告が入ったポケットティッシュを取り出して桐生へと投 げる。
「ほらよ」
「悪いな」
桐生はとりあえずその黒い液体にまみれてしまった棒をティッシュへくるみ、袖口と汚れた指を拭う。その間動作はのたのたと桐生の俊敏さはまるでないもの で、目は驚きに見開かれたままペンだと思っていたものを見つめている。
「…だから言ったろ」
そのままどさりとソファへ腰をふたたび落ち着けると、大吾は呆れたようにため息をついた。
「マスカラだよ」
「マスカラ?」
桐生も名前は聞いた事はあった。しかし何をするものなのかは知らない。マラカスとは違うようだった。
「知らねぇのかよ、……貸してくれ」
大吾はどこか含みある、黒目勝ちな瞳をくるりと悪戯っぽくかがやかせて桐生の側へ膝をついた。桐生は大吾の言われるがままにマスカラを手渡す。
中の芯は折れてはおらず、大吾はそれへ黒い液をたっぷりと絡ませると下から覗き込むようにして顔を近づける。桐生は反射的に顔を背けた。大吾が顎を掴む。 おい、言いかけた桐生を大吾は、
「いいから、目ェ開けてろ。目ン玉突き刺さっても知らねぇぞ」
繊維がけばけばと絡みついたマスカラを桐生の目のすぐ近くへかざして、にやりと大吾は笑った。



まばたきがひどくおっくうだ。それが桐生の真っ先にある感想だった。
「ふ、ふふ、はははは、桐生さん、アンタすげえ顔してるぜ」
もう笑いが止まらない、大吾は足をばたつかせて笑った。腹がひきつれるほどおかしい、ラクダのように上下ふさふさとした睫の桐生がむっとしているのがます ますおかしい。
「どうなってんだ?」
大吾の部屋には鏡が無い。桐生はただ笑われるだけ、居心地が悪くて身体をゆする。
「どうなってるも何も、二丁目あたりで立ってても誰も声もかけねぇだろうな」
くくくく、大吾は鼻を膨らませて笑う。格好がつかないからと幹部連中にもあまり笑い顔を見せないように心がけていたのが台無しだ、だがそれもどうでもいい ような気持ちで大吾は笑っている。
今までずっと背中ばかりを追いかけさせられていたのだから、思い切り笑ってやろうという気になった。
最後なのかもしれないのだから。
「小学生でも、女は女だなあ」
「なんだ?」
「化粧だよ」
「化粧!?」
桐生は本気で驚いた。桐生の知る女と言えば、化粧気のない婦人警官や、こってりと盛りつけたキャバ嬢ぐらいだ。蝶々のような睫もぎらぎらした唇も、遥の印 象とは程遠い。
程遠い、と思っているのはもしかしたら桐生ひとりかもしれない。頬紅ひとはけ、口紅ひとさし、それだけで化けてしまうのが女なのだ。
しかし遥と化粧がどうしても桐生は結びつかないでいる。
何も足す必要はない、
何も引く必要もない、
まだ早い、
それならいつならいいのだ、
とにかくまだ早い、
早いったら早い、
だが自分が遥を止める権利はあるのか、
ふさふさ睫で真剣に考え込む桐生は滑稽だった。


ひとしきり笑った大吾は、不意に笑みを吹き消して真面目な口ぶりで言った。
「なあ、アンタ。マスカラ買ってやれよな」
「わかってる。壊しちまったしな」
「案外いいもんかもしれねえよ」
大吾はソファの上で身体をくるりと回転させた。肘掛に脚を投げ出して、背をもう一方の肘掛へかたむけ行儀悪く横座り。
つま先の細く尖った、洒落た靴は窓の外を指している。窓は南を向いていた。追いかけ続けた男が次にゆく先を向いていた。
「なんでだ」
「知ってるか、それつけたまま泣いたら涙って黒いんだぜ」
「黒い?」
「そうじゃないのもあるけどな。黒い涙だぜ、驚くぜ」

ふうん、桐生は掌にマスカラを転がして気のないふうだった。涙に色がつくなんて想像もつかないようで、ふさふさと睫を揺らしている。
唇を軽くゆがめた意地の悪い顔の大吾は桐生を指差した。弥生は人を指差してはいけませんと躾けたのに逆らうのはいい気分だった。
「黒でもねぇと、アンタ気づかないだろ」
「あ?」
「すぐわかるぜ、黒けりゃ」

泣かすなよ、大吾はぽつりと言った。
「……沖縄か」
応接机の上へ投げ出された土地譲渡契約書。東城会がどうして得たか忘れてしまうほど取るに足らない土地で、今後何かに使う予定のない土地。
そこを龍はあらたなすみかとするのだ。
極楽のように青い空の島へ、海を越えていく。
大吾をこの、魔窟のような東京に置いたまま。


「暇になったら来い」
桐生の物言いは簡潔すぎて、大吾が重荷にしているものをつまらないものに変えていく。
「カンタンに言ってくれるじゃねえか。誰が押し付けたと思ってんだ」
「悪いな」
「アンタ悪いとなんか思っちゃいねえだろ」
「フッ」

行っちまえよ、沖縄に。



「ところで大吾、これはどうすればいいんだ」
「顔洗えば落ちるだろ」
「………おい、落ちねぇぞ!」
「何!?」
「落ちねぇ!」
「チッ…ウォータープルーフか…」
「どうすんだ!」





「オイ!誰かマツキヨ行ってクレンジング買って来い!!店員にウォータープルーフでも落ちるか聞けよ!!」
都内マツキヨへ強面が大挙するまであと十分。

モクジ
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