夢のまた夢
腕があれば、あんたを抱けるやろ。
ははあ、腕だけじゃアレがない。
そうやなあ、まったく禁欲や。
いきなり姿を現すものだから、桐生は息を忘れた。飲むどころではない、完全に自失した。
「………り」
自分が死んだのか、一瞬そんな考えに陥りかけて、それから生まれて初めて空いた口がふさがらないという異常を経験した。
深夜も深夜だ、既に二時を回っている。どうして桐生はこんな夜更けにチェーンもかけずにドアを開けたのか、それ以上にどうして応じようと思ったのかまるで
わからないでいた。
気づいたらドアを開けていたのだ。
そして、いた。
廊下の蛍光灯の白さがさむざむと金色の髪を褪せさせている。人工的な金色に、人工的な肌の浅黒さ。
分厚い胸元にぎらぎらあくどいほど眩しい極太の、首を絞めるのにうってつけのようなネックレス。
にやりと笑う傷顔がいた。
「り」
「へえ」
「り、」
「り、り、って鈴虫かいな。ほら、名前呼んでみい」
「り…」
「またりィや、ほんま、それきゃ言えんのか」
どうしてか、桐生は玄関先に突っ立ったまま何も言えなくなってしまった。
龍司はそんな桐生のうろたえようを子供のように手を叩いて囃し笑う。分厚い掌は爆竹のようにやかましい音を立てて賃貸マンションの廊下へ弾けた。
二軒隣の中年女は物音やゴミ出しにひどく口やかましい。桐生が一度ペットボトルを燃えるゴミの日に捨てようとしたところ、桐生の強面にも怯まず小型犬のご
とき激しさでまくしたてたほど。
うるさくするのはまずい、
「りゅうじ」
そうしてようやく、たどたどしい、幼児が呼ぶような声で桐生は名前を呼んだ。
「せや」
龍司、郷田龍司は太い笑みを浮かべ、たっぷりと含みを持って頷く。
「生きてたのか」
耳に水が入っている時のように言葉が遠い。
「いんや、死んだで、キッチリとな」
だがお前はそこにいるじゃねえか、いいかけようにも桐生の声はくぐもってしまう。
ああ、そうだ、耳に水が入っているのだから、口にも水が入っているんだろう。桐生は慌てて空気を探す。
「おじさん、どうしたの?こんな夜更けに」
眠たげな遥の声に、桐生ははっとした。
ドアは開いてはいなかった。
玄関の招き猫型の時計は午前二時を指している。玄関の電気もつけず、真っ暗な中で桐生はただ一人立ち尽くしていた。
「誰か来たの?」
「ああ…いや、なんだか物音がした気がしてな」
遥の眼差しが曇った。とっさに桐生が口にした言い訳に過ぎなかったが、何度も怖い思いをさせた遥に言っていい言葉ではない。
慌てて桐生は首を振って、
「猫だった。最近多いんだろうこの辺り。横山さんも言ってた」
「猫?」
ぱっと遥が顔を上げる、遥は犬だけではなく動物全般にやさしい子供だ。以前真島が「どや」と見せたニシキヘビにもためらいなく触れていた。首に巻いたろか
と真島が調子付いて、遥もやってとせがんだが桐生が止めた。
「ああ、餌でも探してるんだろうな」
「おじさん、今度ミルクあげてもいい?」
「どうだろうな…横山さんがうるさいんじゃねえか」
「こっそり、ね?」
「見つかるなよ」
「うん!」
遥はそのまま自分の寝室へと戻っていった。最初リビングに二人布団を並べて寝ていたのだが、夜中うなされる事が無くなってから遥はベッドを買って、それか
ら私部屋が欲しいとねだった。ねだる格好を取って桐生へ安心するように言ったに等しい。桐生もそれがわかったので今二人は別々の部屋で眠っている。
それでも時折、たとえば酷く雨の降った夜や風の強い夜、遥は枕をかかえて桐生の部屋へやってくる。
「おじさん、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
ドア越しの遥の声に、ようやく桐生はのろのろとベッドへ戻った。
玄関のたたきへ素足で立っていたためにつま先が冷え、眠りはほうぼうへ散らばってしまっている。目を閉じてそれをひとつひとつ集めるようにして、また眠り
に落ちようとこころみた。
身体を丸めて眠る癖が、桐生にはあった。
「ワシ、幽霊ですねん」
はははは、朗らかで人を食った笑い方に桐生は押し黙った。目の前で馬鹿笑いを立てている龍司。本日二度目の大笑いだ。
ベッドに腰掛けたまま、桐生は額を押さえた。ベッドの下ではロマンチックにも金銀砂子の星がきらめていて、宇宙の真っ只中に浮いている。遠くで赤い星がぎ
らついていた。
その星を背負って龍司が胸を張っているのだ、今度こそ考える間もなく夢だと桐生にもわかった。
「今度も夢か」
「ちゃいます、幽霊やって言うたやろ」
「どう違う」
「ほら、足がないやろ」
言われて桐生は頭をもたげた。たしかに龍司の腰から下は何も無い、溶けている。龍司の向こうに宇宙があった。
たしかに足が無い、そして馬鹿馬鹿しいぐらいにスケールのでかい夢だと関心していると、
「なんぞ言う事ないんか。せっかく会いに来たんやで」
「狭山のところへは」
「行ったで、お兄ちゃん元気でって言いよった。幽霊やっちゅうねん」
「はは」
思わず桐生は苦笑した。狭山らしいと思ったのだった。
「おかしいやろ」
「ああ、組には顔出したのか」
フン、龍司は鼻を鳴らして首を左右に揺らした。肩口に盛り上がる三角形の筋肉がたくましい。
「せやから言うたやろ、幽霊やって。隠居したんと違うで」
「………そうだったな」
「会いに来たんや」
瞬きひとつの間に、桐生の顔のすぐ側に龍司の顔があった。はっとして桐生は腰かけたベッドの上でのけぞる。
壁へ龍司が手をついて身体を寄せ、後すさる桐生を壁際へ追い詰めた。壁があった。
宇宙はふっつり消えて、あたりまえの顔をして壁があった。
遥の描いた桐生の似顔絵が飾ってある、二人の暮らす部屋だった。そこに龍司はいかにも異質で、ちぐはぐだった。おまけに足が無い。
「桐生はん、ほら、腕があるやろ。アンタを抱けるんやで」
「ふざけるのはやめろ」
しかしこれは桐生の夢なのだ。そう思うと桐生はふざけているのは自分のような気もしてくる。
「ふざけてへん。言うたやろ、」
冗談か本当かわからないが、龍司は桐生を見て、
『アンタを抱いたら、さぞ気持ちええやろな。本物の龍同士や』
そううっとりと言った事があった。蛇のようにぬらりぬらりと絡み合うのだろうか、龍という生き物は。ともかく龍司の悪趣味だとその場は聞き流していたのだ
が、まさか夢でまで続きを聞くとは桐生も思わなかった。
そして何度も言うようであるが桐生の夢である、
夢はおのれの願望であると誰かも言っていた。
「俺が望んでるっていうのか」
「ァッたりまえやろ」
夢なのだからと言えばすべてカタがつくようなあっけなさで桐生も龍司も裸になった。
龍司は始終桐生はん桐生はん、そう名前を呼ぶ。桐生もおそるおそるに、
「龍司」
名前を呼び返した。名前を呼んだ瞬間、なにかじんわりと懐かしい心もちが桐生に満ちる。
こらえる声が喉を裂きそうだった。
「アカン」
唐突に龍司は短い叫びを身体を離した。突然放り出されて桐生は思わず不機嫌そうに声を荒げる。
「あ?」
「チンコあらへん」
「あ?」
言われて龍司の身体を見渡すと、たしかに腰のあたりから透けている。床がシーツが透けている。龍司は本気で困ったというように眉を寄せて、
「桐生はん、どないしよ」
「知るか」
「ワシ今後小便どないして出したらええんや、アンタも孕ましてやれへん」
真面目くさってそんな事を言う龍司に桐生はあきれ返るしかない。
「口から出したらいいだろう」
後半はきれいに無視をした。
「シカツ問題や、アホウ。人事や思て気楽に抜かすな」
龍司が鼻息も荒く桐生の肩を掴んだ。宙に浮いているので迫力も何もない。桐生はその手をすげなく払った。
「もう帰れ」
「どこにや」
「病院だ。看護婦に小便採ってもらえ」
病院。
その単語が鍵となった。口に出すまで桐生は忘れていた。龍司自身も忘れていたのだろう。口をぽんと開けて呆けている。
「………せや、ワシ病院におったんや」
「……………」
忘れていたとは言いがたい。桐生はシブい顔をして小さく頷いて見せる。
ばっちり龍司は病院にいるのだ、意識不明の重体だ。つい先日も見舞いに行ったばかりだった。日焼けした顔が病室に不釣合いだと狭山が目を潤ませたばかり
だった。
「あー……そんなら、次回っちゅう事で」
「無えよ」
「チンコつけてくるよってに。期待しときや。ワシのはものごっついで、そのうち真珠でも埋めたろ思てんねん」
「いいから帰れ」
「ヒイヒイ言わせたるわ」
龍司は分厚い舌を出して、べろりと傷の走る唇を舐めた。卑猥に中指を立てて見せる。極道だ任侠だと昭和臭い男だが、案外ヤンキーのような軽さも持ち合わせ
ていた。
「帰れ」
「わあっとるわ、そないに嫌ァな顔せんでもええやろ」
「龍司」
「なんや」
「………起きろよ」
何と言っていいものか考えた末、桐生が言ったのはこれだけ。
全身半透明になって帰りかけていた龍司は一瞬にしてまた姿を成し、にやりと一つも二つもあるような顔で不敵に笑って、
「……起きたるわ」
ほなな、龍司は掻き消える。
龍司が触れたつま先はあたたかく痺れたようで、すんなりと眠りに落ちていけるようだった。
携帯が鳴っている。
朝日は白さを失って、もう八時を回ろうとしているところ。遥が設定した着信音は子犬のワルツ、この着信音は、
「……さやまか」
狭山からの着信だった。パソコンに精通しているわりにメール不精な彼女は大した事でなくとも電話をかけてくる。
まだ大阪には戻っておらず、たまに遥の顔を見に来たとわざわざ言い置いて遊びに来る事もあった。大阪に戻るのは未定であり、なぜなら、
『一馬か!あんな、あんな、今朝病院の先生から電話来たんやけどな!お兄ちゃんが、…お兄ちゃんがな!!』
わかっている。
「ああ、わかってる」
桐生は微笑んで、それから遥を大声で呼んだ。
「遥、出かけるぞ!」
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