大阪の夜
お願いだ、そう言う声が震えてたんだ。
夏の日だ。暑かったからおかしかったんだろうか。
目の前でデブが吹っ飛んだ。俺と比べても三十キロは重たかったろう、ドラムカンみたいなクソデブだった。
ガキだった俺はたしかそのデブにボッコボコにされて、唇を切っていた。鼻血も出ていた。
イキがって喧嘩して、体格差なんかどうにでもなるなんて馬鹿で、案の定体格差にゴリ押されていいように殴らせてたんだった。シャッターに押し付けられて錆
がシャツを汚す。デブは切れると怖いっていうが、本当にそうだった。
何語でもない唸り声を上げながら俺をひたすらに殴る。俺は殴られる。デブの汗が俺の目に入って気持ちが悪かった。
空ばっかり真っ青で、きれいで、俺は正直に言えば死ぬかと思った。このままいけば死ぬなと思いながら、今更怖くて怖くてたまらなくなる。
みっともなく誰か助けてなんて事を口走る俺、デブは俺の首を掴んでニヤニヤ笑ってた。
そんなデブをいきなり現れて蹴飛ばしたアンタは、次に俺を引きずり起こすと殴った。
「…その顔は簡単に殴らせていい顔じゃねぇ」
低い声で、怖い顔をしてそう言った。髭の剃り方が下手くそだったのをよく覚えてる。
アンタも殴ったじゃねぇか。俺が噛み付くと、
「……そうだったな」
唇の端が少しへにゃっとなるだけだったが、確かに笑って俺に肩を貸す。
親父かお袋か、それとも組の誰かにか、ともかくアンタは誰かに頼まれて俺を迎えに来て、そして俺を助けた。
アンタにしてみりゃ、組の下っ端が組長の息子の迎えに寄越されただけだろう。
でも俺は違うんだ。
桐生さん。
ヒーローになったんだ。アンタが、俺の。憧れなんて近すぎる、空を飛んできたヒーローだったんだ。
アンタの指が俺の顎を擦った。垂れた血を拭ってくれて、アンタの指が赤くなる。
俺はどうしてか顔が熱くなって、アンタが貸してくれた肩になるべく体重をかけないように、身体を預けないように苦心しながら帰ったんだ。
アンタは俺を気遣ったのかほとんど俺を抱えるようにして歩く。暑かったからアンタも汗だくで、俺も汗だくで、二人とも男だから匂いがあって、
よたよた歩いてる俺に、アンタは帰りに大して金も無ぇだろうにラーメン奢ってくれて、切れた口がしみて俺が痛がるのをアンタはシマッタって顔をしてて、
それがどれも苦しいぐらいに俺の中に染み込んだ。
その日俺はアンタでヌいた。男でヌいたのは初めてだったけど、とまんなくって何度もヌいて、しまいにはチンポ擦り過ぎて痛くなって、涙まで出てきた。
鼻をすすりすすりヌいたのなんてあれっきりだ。
桐生さん、
桐生さん、
桐生さんって。
そういや、誰かの名前を呼びながらヌくのもあれが初めてだったんじゃねぇかな。
「……アンタで馬鹿みたいにヌいたよ」
言われて桐生は一瞬笑っていいものか迷った。大吾は笑っていなかったからだ。
真っ白いダウンジャケットを脱いだ大吾の身体は、桐生の覚えているあの子供とは比べ物にならないぐらいに育っていた。桐生のように刺々しいまでに絞られて
はいない、のびやかな肩の丸みがまだ子供の顔をしている。
二人がいるのは神室町ではない。大阪だ。近江連合と五分の杯を交わす――亡き寺田の遺言を実現に移すべく、桐生の姿は大阪にある。
そしてその傍らにあったのが、堂島大吾の姿。
大阪の安宿、二人それぞれのベッドに腰を下ろして少し酒を飲んでいた、十年余の空白が二人の間にはある。その隙間を埋めるように、しかし傷には触れないよ
うに、手探りの会話を交わした。お互い踏み込まず他愛無い話をしていた中で、大吾が一歩踏み込んだ。
桐生もそれを覚えていた。大吾が襲われているのを偶然見つけて、相手を撃退した夏の日のことを。だがそれは大吾に言われて初めて思い出す程度の出来事だっ
た。
自分でヌいたと言われて、急に居心地が悪くなった桐生は視線をそらした。
「悪い冗談だ」
言えたのはそれきりだった。大吾の視線は痛いほど桐生に突き刺さっていて、危うい空気が漂い始めている。
「冗談じゃねぇよ。アンタがあれからムショに行って、それから一年前戻ってきたって聞いてから、…俺はまたおかしくなりそうだ」
大吾がベッドから腰を浮かせた。桐生の腰掛けるベッドへ近寄ろうとしているのを敏感に察知した桐生は意識を鋭くした。ビールの缶をサイドテーブルへ置いて
両手を空け、警戒を強める。それを見た大吾は悲しそうに眉尻を下げた。じつ、と桐生を見つめる。
(チッ)
内心桐生が舌打ちをした。黒目勝ちな大吾がじっとこうして見つめてくるのを、邪険にすることは昔からできなかった。弟のように桐生さん桐生さんと慕ってく
る大吾は桐生にとっても可愛く、それだけに大吾の甘え方も年季が入っている。
ベッドを降りた大吾は桐生の足元へ膝をついた。
「何のつもりだ」
「撫でてくれ、桐生さん」
「あ?」
桐生の膝に大吾は一旦手を伸ばしかけて、引っ込める。指先が震えていた。桐生はそれに気づかないふりをした。
「……変な事したくねぇんだ。嫌われたくない。今そんな場合じゃねぇのもわかってる。…でも、撫でてくれ、そんだけでいいから…桐生さん」
しばらく迷った後で、桐生は大きな手で大吾の髪の毛をそっと撫ぜた。うつむいた顔は桐生から見えないが、ひくりと肩が震える。
やわらかい髪の毛へ指を差し込んでかき回す。指先が地肌に触れたが、驚くほど熱い。
無言で桐生は髪の毛を掴むと、頭ごと乱暴に引き寄せて自分の膝へ寄せた。大吾の腕が戸惑いがちに桐生の腰へ回った。
「きりゅうさん」
「大吾てめぇいくつになった」
てめぇ、などと。昔はとても呼べなかった。桐生は口に出して自分の言葉の乱暴さに戸惑う。大吾があまりにも子供のようだったからだ。
「……いくつに見える……」
返事はくぐもっていた。
桐生の眉がぎゅっと持ちあがる。何をキャバ嬢のようなことを言い出すのだと。大吾は桐生の膝にしっかりと頭を乗せたまま、時折頭を揺らしている。
「……十五そこらのガキに見えるぜ」
悪くすればもっと下だ、
そう桐生が続けると、
「ガキのまんまだよ、俺は、アンタに会うと」
泣き笑いのような
ぐずっ、
鼻をすする音を、桐生は聞かないふりをした。大阪の夜は寒い。
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