真っ赤なボール

赤い球体、
赤い赤い球体、
真っ赤に煮える球体、
熱をもって赤い、
それはきっと太陽だ、
太陽だ、




桃はぐいと何かを踏みつけた。あまり足元を見ていない男である。見ていなくても落とし穴に引っ掛かる事はないが、犬の糞くらいはたまに踏みつける。
「うん?」
桃が踵を上げるまでもなく、踏みつけたそれが生ゴムの塊のように踵を力強く押し返してきた。脚を上げる。
「……うん?」
踏みつけたのはちょうど拳くらいの大きさの赤いボールのようだった。夕暮れだったのにそのボールは内側から真っ赤に輝いている。腰をかがめ、眉を優しくし て微笑みを浮かべた桃は何気なくそれを拾おうと手を伸ばした。
指先が触れると驚くべき事にそれは酷く熱かった。真夏にはまだ早い時期である、夕暮れ間近のこの時間まで一日照りつけられていただけにしてはおかしい熱さ だった。
しかし手のひらを焼く灼赤棒すら握った桃は、単に人肌以上に熱いだけのそのボールをやすやすと掴む。手のひらにちょうど収まったそのボールは生傷のように 疼いている。
「……なんだこりゃ」
疼いている、
生きている、
そのちっぽけなボールは生きているように脈打っていた。
桃はしばらくそれを眺め下ろしている。
そのボールについて考えていた。
背後に迫っていた夕暮れが追いついて、桃の背中へ齧りついた。濃紺の、光を十分吸い取る学ランの背中はまだ少し暖かい。この熱が冷める頃には夕日もしっか り落ちるだろう。
「……」
春の海のように優しい目で桃はそのボールを見下ろしていた。
手のひらで脈打つそのあたたかさ、桃はそれを手放せないでいる。よく知ったあたたかさは何度も手に入れては失ったあたたかさだ。
指に力を込めてそれを握る。
ボールは桃の指に逆らうようにぐんとさっきのように押し返してくる。今にも桃の手のひらから飛び出して行きそうに弾む。
思わず、桃は指へ力をこめた。

「ふぐぇっ」
遠く校庭を走っていた富樫がスッ転んだ。すぐさま虎丸が冷やかした、冷やかしついでに富樫が運んでいたイモをかっさらう。
「なーにをやっとんじゃ、富樫!」
「うるっせぇ、おい虎、イモ返さんかい!」
「嫌じゃ」
「何」
「おーい富樫よ、いいから帰ろうや」
「今日は水着だらけの水泳大会があるんじゃ」
食い物と、富樫と、虎丸。少し離れて田沢と松尾、あきれたように秀麻呂。
桃にとっては時々涙が出る程愛しい風景が夕闇に飲み込まれかけている。しかし皆明るい顔で歩いている。
ついこの間まで失ったと思ったばかりの友が、皆何事も無かったように笑い合いながら歩いていた。

「そうか」
桃は手のひらのボールを見下ろした。
大事な、とても大事な、
桃の知る中でひと際大事で、そのくせ失われやすい男の。
「……富樫、」
静かに睫毛のそよぐ瞳を伏せて、桃は暗い声で呟いた。打ち上げられたばかりの藻のように重たく、もつれ絡まった声は桃自身を驚かせる。



赤い球体、
赤い赤い球体、
真っ赤に煮える球体、
熱をもって赤い、
それはきっと太陽だ、
太陽だ、

すっかりと夕闇に沈んで、ボールはなお輝きだした。真っ赤に輝いて、やっぱり桃の手を逃げ出そうとするように弾んでいる。桃はそのたびぐっと握って逃がさ ない。
「駄目だ」
とうとう声に出して桃はボールを咎めた。ボールは反発を強める。
「駄目だ!」
声を荒げる。ボールはますます暴れた。桃はとっさに胸に抱きしめた。熱い、桃の胸も熱い。
「行くな、富樫」
「行くな」
桃はボールを抱いて囁いた。

「何やっとんじゃ」
顔を上げる。ずいぶん情けない顔どころか、酷い顔をしていたので桃は初めて顔を上げる事をためらった。友のための涙や泣き顔を見せる事をためらわない男に しては自分のことながら混乱する気持ちを味わう。
富樫が立っていた。夕闇に生首が浮かんでいるように見える。
「富樫」
「飯の時間になっても戻ってこねぇからよ、秀麻呂の奴が呼びに行けってうるせぇんでな。チェッ、どうせ俺の飯なんざ虎の野郎が喰っちまってるだろうぜ」
アーアァ、富樫が桃へ背を向けて大きく伸びをしながら寮へと向かって歩き出す。
「そうか」
「そうかじゃねぇよ、おめぇのせいじゃろうが」
「ああ、そうだな」
確かに腹も減っていた。それが桃へおかしな錯覚を起こさせる。桃は胸に抱いたボールを手のひらへ再び転がした。ボールは今不思議と大人しくしていて桃を見 上げている。
「………」

桃は口を開けた。

赤い実、
苺、
トマト、
林檎、
林檎、
林檎、
あるいは、
心臓、

「桃!チンタラ歩いてんじゃねえや」
いつまでたっても自分の後ろをついてこない桃に痺れを切らし、戻ってきた富樫が桃の腕を掴んだ。はっと目を見開いた桃へ視線をくれてから、次いで富樫は手 のひらのボールへ気づいた。
「ん?なんじゃこれ」
富樫は考えなく桃の握っていたボールに触れた。桃はその手を引きかける、が、間に合わなかった。
指が触れた瞬間、その赤く輝くボールは嘘のように消えてしまった。もともと無かったように消えて、富樫も富樫でそれを不思議に思わないような顔をしてい る。

「行こうぜ」
今度こそ富樫は歩き出して行く。
桃は無性に、知りたくないような不機嫌な顔でその後をついて歩いた。
月すら出てきていないので、誰もその顔を見ないで済んだ。桃は見られずに済んだ。



「俺はあの時自分という人間が初めて信じられなくなったよ」
日本国内閣総理大臣を退いて十年になろうとしている。桃は呟いて伊達へ盃を渡した。伊達が一息で飲み干す。ヤクザの大親分らしいいい飲み方だった。
「ふん」
「今ならわかるんだ、あれはきっと、執着なんだろう」
「今更わかったのかよ、テメェ案外馬鹿だったんだな」
桃は快活に月明かりだけの部屋で笑った。伊達の邸宅は都内であるのが嘘のように季節にあふれている。夏風にも似た風が渡って行って笑い声を運んで行く。
「そうかもしれないな」
「だが桃、どうして今それを言い出した?」
あっさりと桃は肩をすくめて言い放つ。
「なに、今日赤いゴムボールを踏んだのさ」
「そうかよ」


月が陰った。しかしすぐに輝きを取り戻す。
打ち上げられたばかりの藻のように重たく、もつれ絡まった声。
「伊達、俺はまだ少し、惜しい事をしたと思う事があるんだ」
「執着ってのはそういうもんだろうがよ、」


テメェ案外馬鹿だったんだな、伊達は二度同じ事を言ってのけた。
桃は救われたように笑って、寝る、そう言って仰向けに背中から畳へ寝転んだ。伊達はそれを呆れたように見下ろして、二つ手を打つ。
ほどなくして現われた仏頂面が運んできた毛布を手ずからかけてやりながら、
「俺の周りも馬鹿ばっかりだ」


後日伊達は赤いボールを踏みつける。
それを某金融会社会長の脳天目がけて、メジャーリーガー顔負けの剛速球で投げつけたのはまったく、まったく伊達らしい行いだった。
モクジ
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