しょうしんの
十二月を目の前にすると、さて年末の予定がざくざくと舞
い込んでくる。
江田島平八は多忙である、そして本人も賑やかな席が大好きだ。
だが分刻みのスケジュールは大嫌いだ。たとえその後に粛々とした席があるからと言って、駆けつけ三杯でその席を後にする事など出来ない男である。
周りが第一話さないし、こっそり抜け出そうにも存在感が大きすぎる。
秘書の富樫としては頭の痛い時期であった。なにしろ招待は毎日山のように舞い込むのに、塾長本人としては富樫に一任してしまうのである。
いや、アンタの一番行きてぇところを言えよ――
富樫がいくら言っても、お前に任せるの一点張り。仕事に慣れてきたとは言ってもまだまだ食事の支度や風呂の温度などに文句が出なくなってきて、それで秘書
らしい仕事もさせてもらえるようになったあたり。
なにしろ先輩もいない、マニュアルもない。
恥をかいて怒鳴られての十年だった、来年富樫は三十を迎える。
三十になる歳というのを富樫はようやく十一月になって立ち止まり、振り返った。
男塾を出て、それで皆白鳩のように勢いよく羽ばたいていった中で富樫一人古巣にとどまった。もちろん自分の居場所は男塾以外にない、そして生涯ついて歩き
たいのは塾長江田島平八だけなのだと決めた。
決めたからには富樫である、がむしゃらに突っ走ってひた走って、それでの三十である。
時々、自分は道を選んだようで実は何も選ばなかったのではないかと思う事もある。皆華々しく巣立っていった、何かしらの目的、たとえば桃は大学へ勉学を極
めに巣立っていった、伊達は男の道を極めにいった、それに比べ自分はどうだと気になる事もあった。
結局自分には居場所が見当たらない、明確な目的が無いから情けなくも男塾にしがみついただけなのではないかと思う事もあった。
「富樫、おい、ぬるい」
ザバーッ、寿司ならふた家族ぶんぐらい作れそうな大きな桶で、塾長は窓越しに湯を浴びせかけた。
「あっぢゃああああ!!!」
物思いに沈んで風呂炊きを怠っていた富樫は飛び上がる。塾長がぬるいと言っても常人にとっては熱湯である。十一月寒空の下、ワッと化け物みたいな湯気が丸
く生まれて、
「ぶぇーっきしっ!!ばぇくしょい!!」
そしてすぐに冷えた。
富樫の年末は既に迫っていて、三十路も迫っている。
日本で一番忙しい男のスケジュールは十二月に突入直前にはなんとか格好もつき、富樫の気苦労もひと段落を得た。
組めたと思っているうちはまだ組めていないのがスケジュールというもので、気がつけば変更に次ぐ変更、そして謝罪の嵐。
富樫自身の予定など入れられるはずもない、ところどころ空いた時間は貪るようにぐうぐうと寝て、着替えて、そしてすぐに電話にかじりつく。
インターネットやら電子メールの普及するまだだいぶ前の話である。
ファックスすらまだ無い。
そんな時に連絡を取り合う方法と言えば直に出向くか、手紙を出すか、電話をするか。
当然一々出向いてもいられないので、簡単な用件は電話で済ませること
朝一番で変更の電話を入れてはこんな時間に失礼じゃないかね言われ、
昼にかけては昼飯に外出中ですと言われ、
午後にかけてはずいぶんゆっくりとかけてきたものだと言われ、
夕暮れにかけてはこの忙しい時に面倒なと言われ、
晩飯時はそれでも避けて、
夜にかけてはもうお帰りになりましたと言われ、
そうして予定をいくつも変更して、富樫は自分が電話になっているのか、それとも電話が自分なのかわからなくなるぐらい電話をした。最初電話のとりかたを知
らなかった頃と比べれば格段の進歩だけれど、下手くそな字で大きなカレンダーに手帳に書きとりながら電話をかけてかけて、店に予約を入れ、取り消し、土産
の手配をし、入ってくる訪問予定をさばいて、
君のところはいつも電話中だねと嫌味を言われる。
毎年のことながら、富樫は目を回す暇も無いほど忙しい。たまに桃や虎丸が陣中見舞いに訪れてくれても言葉を交わさずに終わることもしばしばあった。
手土産だけを置いて、
「がんばれよ」
そう言い置いて去られてしまう。富樫は電話をしながらとにかく手を振って、また電話に戻っていく。毎年の事だから。そう、毎年の事だからと振り返るほどに
はかすかな余裕がある。
生身の人間と話さないまま一日がどんどん過ぎ去って、しかし塾長の身の回りの世話もあって、富樫はわけがもうわからない。余裕があると言ってもこの程度で
ある。
富樫が何か考え事をする事ができるのは、決まって塾長の風呂焚きの時だった。
便所は自らの生理の都合である。理由にならない。
富樫は江田島平八の秘書である、すべてにおいて優先させるべきは塾長の都合である。
だからこうして風呂焚きの最中ならば考える事が出来る。
かなり寒さの厳しい時期ではあったが男塾のシゴきに耐えてきた富樫にとってはさほどのことではない。景気よく薪をくべながら、色々と考える。この時ばかり
は富樫は自分の事を考えた。それ以外の時間は全て仕事につぎ込んでいると言っても間違いない。
考えて、また、迷っている。
思いのほか三十という数字が重くのしかかってきていた。
三十になるということは、二十では無くなると言う事で。それは若さとかまぶしいものが無くなるような、つまりは感傷に浸っている。
おまけに周りの同期は成功の芽生えが見えてきた頃である。野良犬のように落ちた魚肉ソーセージを争っていた旧友が、後輩のデキが悪くってなどと言い出すの
を聞く事もある。
焦りを感じていた。
富樫は馬鹿である。馬鹿なのだからあまり考えない方がいいのだけれど、それがわかっていないのが馬鹿なのだからしようがない。そして人一倍馬鹿なくせに見
栄っ張りで、意地っ張りな男だった。
(俺はこのまんまずっと塾長の飯炊きでいいんじゃろか…)
ありがちな悩みを深刻そうに考えている。仕事に慣れてきた頃に誰もが通る道である。普通も少し早く、二十六や七で通る道だけれど生憎富樫は馬鹿で要領も悪
いのでたどり着くのが遅くなる。
しかし塾長の下を離れたいかと言えばまったくそんな気はない。選んだのは自分である、だが、自分一人取り残されたような気持ちは消えないまま。
(このままで…このままで……俺ばっかり下っ端のまんまでよう……)
「おい、湯が無くなったぞ!とっとと水を差しにこんか!!ん?おお、ワッハハ尻が焼けだしおったわい!」
なにやら香ばしい、こんがりとした匂いが漂ってきて、富樫はハッとなってバケツに水をざんぶと汲む。
このままか、そうじゃないのか。
悩んで、悩んで、
気が付いたら男塾のOB会の最中の事だった。十二月の末、クリスマスのあたり。
男塾OB忘年会は富樫が唯一自分の主張で入れた塾長の予定だった。今後の江田島平八にとって客観的に見ればもっと有益な席はあっただろうけれど、全て断っ
て入れた。昨年はお開きの寸前に滑り込んだぐらいの遠慮があったけれど、富樫はヤケになったように今回は堂々と予定に入れたのだった。
乾杯乾杯、たび重なる乾杯でグラスがいくつも割れてキラキラ、床に散らばったのを虎丸が踏んでぎゃあぎゃあ、ひと際盛り上がってわあわあ。
その隙間を縫うようにして手洗いに出て、膝から落ちた。
めまいがして、店の柱へ手をつくとさほどの冷たさを感じない。と言う事は富樫の手はとても冷たくなってしまっているということだった。
「富樫、どうしたんだ?」
気遣うようにして触れてくる桃の手はいつもあたたかい。氷のように冷え切っていた時は一度としてない、逆に熱い時もある。たとえばあの桜の樹の下で富樫の
頬に触れた手、あれは記憶力の悪い富樫が忘れられないほど熱かった。
「酔ったか?」
「いんや……桃よう」
桃ならいいか、富樫は口を開いた。桃は他の塾生よりもっと他人ではない。虎丸のように命がけの相棒と言うような関係でもない。なんとなく、自分の一部分を
明け渡してしまっているような関係だと富樫は思っていた。桃は富樫を富樫以上に知っているような、それだけでよかった。兄の代わりのようなものだと思って
いて、そう打ち明けたらそれじゃ困るんだと桃は拗ねる。
兄程には遠くなくて、兄よりは生臭で、兄と同じぐらい頼っていて、兄よりは欲得勘定がある。
妙なバランスで持ちつ持たれつな関係だった。
宴会の盛り上がりはすぐそばで、変にシリアスな感じがしないのが富樫にとってはよかった。
薄暗い店の廊下に、障子越しのあかりがいい具合に富樫と桃を照らしている。
「俺ら来年三十だったな」
「そうだったか」
他人事のような言い様に富樫は笑った。男塾は正規の教育機関ではない。大豪院邪鬼を始め、年齢不詳なところは何人もいる。桃もそうかもしれなかった、とそ
こまで考えて富樫は桃の実年齢すら知らない事に気づく。
話した事は無かった。
桃は富樫を知りたいだけ知っている。富樫が知られたくない事は知らない。でも知られたくないと言いながらも内心知って欲しいようなところは知っている。も
しかしたら全て、富樫の何もかもを知っているのかもしれない。でも顔には出さない、知らない顔をしていられる。富樫に気づかせないでいられる。
桃はむず痒いところすみずみまで手の届く男だった。
「たまに思うんじゃ、俺ァ…結局男塾を逃げ場にしたんじゃねぇかってよ」
盛大に桃は噴き出した。
「何がおかしい」
「お前が大人みたいな口きくからさ」
「何じゃと」
「いっぱしの大人みたいに迷うからさ。お前が迷ってるのはせいぜい今日はカレーにしようか、それともラーメンにしようか、そんなところぐらいが丁度いい
ぜ」
富樫は顔を赤くして怒った。桃は両手を上げて肩をすくめた。その仕草がやけに決まっている。よく見ればスーツだったりネクタイだったり、少し良いものなの
がメクラな富樫にも、そして薄暗がりな中でもわかった。
大人なのだ。
充実した大人なのだ。
富樫は悔しくなった。
「いいなおめぇは、後輩も居て」
「何言ってんだ」
桃の指がスッと伸びて、富樫の髭が剃られた鼻の下へ触れた。塾生の時ははやしていて、大人になってからは剃っている。分別の鼻の下を桃は撫ぜた。その手を
富樫は叩き落す。
「……お前は十分大人になったんだな」
「おめぇには肩書っちゅうモンもあんだろ?スーツだっていいスーツだろうし、…俺ァ…どっちも無いんじゃ」
肩を落とした俗物が愛しい、桃は酔った振りで富樫の肩を抱いた。富樫は肩を落としたきり。
「富樫、そんなものが欲しいのか?お前はそんなもののために秘書になった訳じゃねぇだろう」
だいたい桃は少し怒ってもいるのだ。マトモに会うのはすごく久しぶりで、昨日散髪に行ったぐらい浮かれていたのだ。
だのにわざわざ廊下まで追いかけてきて、うらやむのは後輩や肩書、そんな付属品ばかり。
「俺を羨ましいっていうなら、そうだな……俺がいい男だとか、すごく魅力があるとか、そういう事を言って欲しいんだぜ」
「ば、」
そうら、目に光。桃はまんまと安心して抱いた富樫の肩から、首を締めあげるように抱きこむ。
馬鹿野郎、てめぇ、
富樫のその単純な怒りが桃の懐かしさだ。こうして肩書がつかないだの後輩がいないだの、くだらない事を気にする富樫も好きだ。そうしたしみったれた見栄っ
張りなところも富樫の一部で、好きだ。
でももっと好きな富樫も居る。
桃が耳に唇をくっつけるようにして言った。いやらしいところの少しも無い声で言った。富樫のためだけの言葉だった。
「お前が欲しかったのがいいスーツだったり、後輩だったり。そんなものが欲しい訳じゃないだろ」
知っている。富樫は頷いた。
富樫もわかっている。男塾に居て、男として大事なことをいくつも知った。その大事な事の塊のような男を知った。
その男の傍に居たいと思った。
その男からもっと学びたいと思っているのだ。男としての全てを。そしてその男が男の道を進む手助けをしたいと思ったのだった。
そこに素敵なスーツや、華々しい舞台は無い。数十人もの部下も要らない。
わかっているのに、忘れていただけだった。
「十はまだまだ一本足、二はようやく二本足、三で中にシンが入って、四で回りを囲って、五で筋金を入れて、六で根っこを下ろして、七で腰が曲がって…八で
末広がり、九で丸くなるのにあと一つ、そんなもんさ。俺らはまだまだシンすら入っちゃいねぇよ」
桃にしては教訓臭い事を言って、鼻の頭を掻いた。照れている。
富樫も少し照れた。
青臭い。
三十になろうとも、まだこれだけ青臭い。
「おう、なんじゃ富樫。桃もか。フッフフこんな人目につかん所で乳繰り合いおって、けしからんのう」
塾長がからりと障子を開けて、着物の袖から伸びた太い腕を組み、顎をさすっている。顔は赤い、もうだいぶん飲んだようだった。こうも気持ち良く酔えている
らしい塾長を見ると富樫も予定に入れて良かったという気持ちになる。
「オッス、失礼しました」
桃はあっさりと富樫から離れて笑った。その言い方では乳繰り云々がボヤけているようだったが、富樫には気づかない。
「おう、そうじゃ富樫。お前も来年で三十か」
(き、聞いてやがったのか…!?)
着物のたもとを探り、何か四角い箱のようなものを取り出すと塾長は富樫へ投げた。富樫はそれを一度お手玉してから、キャッチ。あいびきや密談におあつらえ
向きだった暗がりには既に障子が開け放たれたせいで光がさして、いかがわしい雰囲気が消えている。
その箱は透明なプラスチックのもので、よく見ると中に入っているのは名刺のようだった。
「お前の名刺もそろそろ無かった頃じゃろうと思ってな」
「塾長、これァ」
声を震わせて富樫はそれを食い入るようにして見つめている。
『第一秘書・富樫源次』
「うむ、お前の欲しがっていた肩書じゃ。まったく不便なものを欲しがる奴よ、ワシなんぞ肩が凝ってしようがないわい」
「で、第一って事は…!!その、俺の下に、新しい、」
待望の、
「いや、今までのままじゃ。わしの秘書は今まで通りお前一人。もちろん飯炊きもじゃ!ワッハハ」
「な、なに――っ!!てめぇそれじゃサギじゃねぇか!!ひ、一人きりっきゃいねぇってのに、第一もクソもあるもんかよ!!」
廊下でがっぷり四つに組みあい、相撲を取り始めた秘書と主人に、桃はかりかりと頭を掻いて呆れている。
なにもかもお見通しの主人の観察眼の鋭さと、
まるでなんにもわかっちゃいない秘書の愚かさに。
どちらもただし、とても桃にとっては愛しいものではあった。
とにかくこの世は愉しくて、桃にとっては結構な夜である。
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