ふけをみつけてよかったね
「富樫、いいか」
この桃という男はいつも決断を富樫に投げてくる、それが非常にヤッカイだった。いいかと聞いておきながら、答えはイエスだと信じて疑っていない桃の顔が富
樫を腹立たせる。
「嫌じゃ」
富樫はだから嫌だと答えた。したくないのだと言うと桃は目を丸くして、
「どうして」
どうしてと来たもんだ――富樫はますます顔に渋を塗りたくる。富樫は思わず座布団の端を打った。住職のように立派な座布団は富樫の幼いころからの憧れで、
分厚くて綿のぎっちり詰まった座布団はぼすんと鈍い音を立てる。
「どうしてだ、富樫」
今時の五歳児なんかそれこそこまっしゃくれてしまっていて、こんな風に素直にどうしてとは聞いてこない。富樫は数十年来勝てたためしのない戦いを挑んだ。
言う事を聞く男ではないとわかっていたが、話のわからない男ではないとも思っている。どちらかといえばまともなほうの桃へ富樫は賭けた。
「もうお互いこんな歳じゃ、抱き合ってどうするよ」
「こんな歳?」
「俺もてめぇもよ、来年五十にもなんぜ」
富樫は自分の衰えを健康診断の結果と、風俗での己の息子の不甲斐なさで知った。ごじゅーにして惑わずじゃと言って馬券を買って、大いにスッた相棒もいる。
五十は天命を知るのでござると諭した友人もいた。
五十とは微妙な歳だった。年寄りには早い気がするし、おじさんは少し若い気もする。会社に居れば重いだろうし、政財界なら若手も若手になるだろう。
「そうだったな、俺の誕生日、今年はどうしてくれるんだ?」
去年は伊達が津軽海峡の荒波の中ひと突きで仕留めたお化けマグロ(オトリに虎丸が活躍したらしい)をメインに、盛大に祝ってやった。
「主賓が内容知りたがるんじゃねぇ」
「そうか、楽しみにしているよ」
それで桃は結局自分の座布団から盛大にはみ出て、富樫へ腕を伸ばした。富樫がうっとうしそうに身をよじり、手をかざして押しとどめた。なにしろまだ九月
で、残暑どころか夏がずれこんできたようにまだ暑いのだ。卒業し、髪の毛をバッサリと切ったばかりの富樫だったが暑いものは暑い。畳についている手のひら
が汗でじんわりと滑る。
「どうして止めるんだ」
「もうベタベタする歳でもねぇよ」
「俺はまだ若い気でいるんだぜ?」
桃が笑う。
富樫はああそうだろうよと歯をイッと噛みあわせた顔を見せてやった。
桃は若い。
長年傍で顔を飽きを通り越したぐらいに見ていた富樫からしても、時折驚くほど若い。
もちろん塾生時代と比べれば歳をとった、髪型もあのくるくる好き勝手な跳ね髪ではなく政治家らしく撫でつけて。スーツをぱりっと気負いなく着こなした男ら
しい姿は大人の男ではないと決して出来ないものだろう。
だが、若い。
塾生時代の数少ない写真を取り出して見比べれば、ああまなじりが、そうだ口元が、と老いらしいものを発見できる。しかし三十のあるあたりから全く変わって
ないのではないかと富樫は睨む。
「おめぇは老けねぇな」
「お前は少し老けたな」
がっ、富樫の喉の奥から妙な声。この正直なところがかわりなく桃だった、実は桃は失言の多い政治家でもある。だが失言というよりも思ったままを述べ、更に
それを正しいと証明するのだから結果として失言として残らないだけに過ぎない。
桃は正直な男だった。
「苦労が絶えねぇんだよ、面倒事ばっかりかけるオヤジが居るからな」
オヤジ、いかにも面倒そうに言う富樫に桃は笑った。そのオヤジに何かあれば一番におんおん泣いてしまう男の物言い、その性根の変わらなさが桃には嬉しい。
「お前は若いな」
「さっき老けたって言っただろが」
桃のこの脈絡のなさ、富樫はやっぱりこいつは老けないのうとなんとなく、なんとなく呟いた。
五十を目前にして桃は富樫に触りたがるようになった。もともとスキンシップの激しい男だったが、
「いいか」
より真剣な顔をして手をのばしてくる。別にそれはいやらしい意味があるわけではないようだった、目が違った。四度に一度はいやらしい意味の目をしていたけ
れど。
そのたび富樫は突っぱねる。聞かなければ、聞かないでしたいようにすればいいのにと富樫は女々しい事を考える。いきなりギュウと抱きしめることだって昔は
よくあった、しかしこう正面から尋ねられると嫌だとしか言えない。むしろとっつかまってからあがいて、結局叶わないで諦めたい。
女々しい。これじゃ拗ねて見せる女郎の手管だと顔を赤らめた。だが赤らめて透き通る血色が頬に鮮やかなのは二十代まで、飛燕のような例外を除けば赤黒く
濁ってしまう。同じように混じりけなく真っ直ぐにいられる年齢は過ぎて、今は面子やしがらみが富樫を曇らせた。
そして富樫は手を伸ばす。桃の首の後ろへ手を回して、ぐっと引き寄せた。桃の膝がつんのめって立派な座布団からはみ出る、富樫の黒い靴下も座布団から飛び
出て畳のヘリを踏んでいた。
桃の黒い靴下の指先がためらって、それからまた富樫へ向けて踏み出す。
感動の再会のようにして桃と富樫は抱き合っていた。馬鹿馬鹿しいぐらいに真剣で、場違いな熱さで抱き合っている。
抱き合ってみればわかる、そんな似合わぬジゴロな台詞を富樫は吐いたことはないが、なんとなく今理解をした。
富樫の鼻先は桃の首筋にあって、嗅ぎなれた桃の匂いの別にもう一つの匂いを嗅いだ。富樫自身使った事のある白髪染めの臭い。そしてその薬品によって僅かに
襟足のところがかぶれている。面の皮の厚い割に肌の弱いところのある桃は富樫のよく知る桃だった。だが白髪を染める桃は富樫の知らない桃である。
抱き合ってああやっぱりと桃は再確認をした。
加齢臭。たるみ始めた首の横皺。煙草のヤニかあの真っ白く分厚い歯が僅かに黄ばんでいる。もちろんその頑丈さに関しては安心さがガチガチと立派に。
桃は腕に力を込めて、富樫の肩口へ鼻先を突っ込んだ。黒いスーツ、一着きりかと思えば同じものを揃いで買っているいつものスーツの肩口へ白いフケが落ちて
いる。桃はフッとそれを吹き飛ばした。
富樫の頭の洗い方は男塾塾生時代となんら変わりない。石鹸で、しかも泡立てもせず石鹸を塊ごとろくすっぽ濡れてもいない髪の毛へゴリゴリ擦りつける。だか
ら中々泡立たないし、頭皮はガサガサになってフケも出るし、石鹸カスもつく。なにより使った石鹸に富樫の硬い髪の毛がいっぱいくっついてしまう。
すっかり塾長の第一秘書という顔できびきびと仕事をこなす富樫は桃のあまり知らない富樫だ。しかし肩にフケを乗っけて歯にアオノリくっつけた富樫はよく知
る富樫だった。
よかった、こいつも変わるんじゃ。富樫は老けを見つけて喜んだ。
何も変わっていない、こいつは。桃はフケを見つけて喜んだ。
五十にして、
五十にして、どうだ?
ふけを見つけて、その日はフケた。
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