春よ、来い

そうさお前は春を呼ぶ。
俺のこころの中にもだ。
ついでに言えば頭もさ。







三月になったと言うのに寒い日が続いていた。テレビでは気象予報士が何度目かの春遠しを呟くし、今日も小学生は霜柱を踏み砕いて登校している。
三月ともなれば桜もぼちぼちふっくらしてくるにも関わらず、相変わらず梅が寒寒しく紅かがやいて寒風に揺れていた。
おん、おん、と強い風が当たって窓ガラスは不穏な音を立てるし、雀はふっくらふくらんで身を縮こまらせて震えている。
三月にもなったのに。


その日、富樫源次はそんな寒い銀杏並木を歩いていた。手にしていたのは林檎だった。富樫と言う男、林檎だとか柿だとか、ああした服の裾でシュッシュと拭っ ただけでかぶりつける類の果物がよく似合う男である。
分厚い歯でガブリと林檎へ噛み付くと赤い皮の下から真っ白い果肉がこぼれて、歯にしみるほど冷たい林檎の甘さが口いっぱいに広がる。
富樫は林檎が好きだった。海際育ちの富樫にとってあまり食べられるものではなかったが、東京ではごろりごろりと売っているのが嬉しくてしょっちゅう手にし ていた。その日二つ目の林檎を富樫は食べ終えたばかり。
しかし林檎の悪いところは体が冷えて、しかも水分が多いものだから小便が近くなるところだ。富樫は銀杏並木を半分まできた辺りでぶるる、と馬のように震え た。辺りを見渡す。幸いにして誰もいない。
立小便は男の特権と言わんばかりに、富樫はさっさと銀杏の陰に隠れてじょうじょうと滝のように小便をした。アンモニアの匂いが広がって、湯気がのぼる。
ぶるるる、もう一度震えるとしまいこんで、並木道へ戻りかけた。
と、並木道の足元に何か芽吹いている。全て枯れ色に覆われていたなかで、その緑は富樫の目に飛び込んできた。
銀杏と道との隙間にあるわずかばかりの土へ、ちょろりと芽吹いているのは富樫の名前も知らない草。別にかがみこんでしげしげと見るほどのものでもない、
しかし富樫は分厚い唇を尖らせて、
「春が来たんじゃのう」
顔にも中身にも似合わぬことをつぶやいた。どうしてそんな事をつぶやいたのか、富樫自身にもわからない。
わからないが、なんとなくその緑がいじましいように思えてそうつぶやいたのだった。
よく見れば石畳の隙間にわずかばかりある土へ苔がくすんだ緑をのぞかせていた。銀杏の幹もどことなくやわらいでいて、
やっぱり春が来たようだった。
しかしやはり富樫である、足を止めどもふたたび歩き出す。歩き出して、道の前方で老婆がうずくまっているのに気づいた。
富樫はいやぁな顔をした。老婆、子供、どちらも富樫にとってあまりいい思い出がない。特に老婆ときたら、ずうずうしく横柄で金にがめついイメージしかな い。
それでも、道端にうずくまっているとなれば何か持病かなのだろう。見過ごすのも寝覚めが悪い、富樫は仕方なしに近寄って、細い肩へ手をかける。
「おい、おい、バァさん、どうしたんだよ」
「おお、顔はひどいが感心な若者じゃ」
老婆が顔を上げて富樫へ抱きつこうと両腕を開く。
瞬間富樫は立ち上がった。ババアの酔狂に付き合ってはいられんと歩き出す、その富樫の右足へ老婆は見た目とは裏腹に素早い動きでガッシリと飛びついた。
「うおッ!な、何すんじゃ、離せ!」
「サトル〜ッ!!母さんだよ!!母さんの顔を忘れたのかい!!」
「またこのパターンかよ!!俺ァてめぇなんか知らねぇぞ!!」
脚を容赦なく振って富樫が老婆を振りほどこうとするものの、もがけばもがくほど絞まる絞まる、富樫の脚に万力のような力で老婆は食いついて離さない。
「おお〜なんと冷たい事を言うんじゃタカシ、母さんを見捨てるつもりかえ」
「さっきサトルっつったろうが!!」

富樫のツッコミをよそに、老婆はいかにも哀れっぽい、同情を誘うようなしおらしい顔でおんおんと泣き出した。泣いているにも関わらず腕は弛む気配が無い。 その泣き声に人気の無かった並木道に人が集まってきた。口口に囁き交わしている内容は富樫にも聞き取れないが、眉をひそめたりとあきらかに富樫を咎めてい る様子。ウウウ、と富樫はこめかみに血管を浮かべながら、
「バァさん、そんであんた、俺に何をさせようっちゅうんじゃ」
老婆は歯の無い口をニッカリ開けて笑い、
「ふぁふぁふぁ、物分りがよくって何よりじゃ」
富樫の老婆に対するイメージが、また一つ悪くなったのだった。
言われるがままに富樫は老婆を背負って、男塾へ歩き出す。放り出したらタダじゃすまんぞと脅されながら。
背負った老婆から土臭い匂いが漂うのに閉口したが、老婆が歩け歩けハイヨーシルバーなどと調子に乗っているのをどやしているうちに到着してしまう。
富樫が歩いた後ろへ、土筆がすっくらと生えていた。
こころなしか、あたりへも萌芽の気配が漂い始めている。



「そんで、バァさんよ。アンタの名前は?」
息子がいるのなら引き取りにきてもらおうと、富樫は食堂にて早速取り調べを始めた。男塾に初めて連れ込んだ女がこれだとは思いたくなかったが、たちまち集 まってくる暇人達は口口に、
「おう、ずいぶん年上の彼女じゃのう」
「松尾よ、これが流行のアラフォーっちゅうものじゃ」
「お、田沢よ流行に詳しいな。ところで、あらふぉーってなんじゃ」
「そりゃ、アレよ。アラ、フォンとに素敵ねって」
「やかましい!!オイ、バァさん、いいから名前を言ってくれや…チェッ、まずはバァさんの名前じゃ」
ピーチクパーチクさえずる友人達のニヤケ顔がにくたらしい。富樫は貧乏鉛筆の先で老婆を追及する。
「春一番じゃ」
言われて富樫、漢字を思い出し思い出ししながらわら半紙へ書き付けていく。
「春一番……はる、いち、ばん……」

鉛筆を投げた。
「バァロォ!!そりゃ名前じゃねぇじゃろうが!!」
「ほんとじゃ」
「てめぇ俺のにんにん袋が破けたら、どうなると思ってんだろうなぁ!!」
「まあまあ富樫、カッカするな。それににんにん袋じゃなくて堪忍袋で、それに破けるんじゃなくて緒が切れるのさ。緒は紐のことだ」
いきりたつ富樫の肩を押さえたのはもちろん桃だった。あたたかい微笑を浮かべてはいたが、やはり連日の寒さに頬は真っ白い。そこへ血の色がさっと透けてい た。
ゆったりとしているが快活な口調で桃は富樫の間違いを全て正してしまうと、椅子に腰かけて脚をぶらぶらさせている老婆へ腰を屈めて視線を合わせる。
今時絶滅危惧種な、きりり凛凛しい男前に、老婆はたちまち頬を赤らめた。富樫はますます面白くない。
「それで、バァさん、春一番が名前ってのはどういう意味だい?」
「ふふん、ワシはニニギノミコトより十四の娘の頃からこの日本に春を知らせる、春一番の役目をおおせつかっておるのよ」
「うん?」
「ほれ、そこを見や」
いつの間にか背筋の伸びた老婆は言葉遣いまでしゃんとしてしまったようで、窓ガラスを示した指も曲がってはいない。

窓ガラスへは結露がびったりとついている。それだけ?と真っ先に覗き込んだ秀麻呂は落胆した様子で老婆を振り向く。
「黴がはえておろうが」
たしかに、ぬるりとした黴がはえている。だがそれがなんだというのか、刺さる視線に答えたのは老婆ではなく桃だった。
「黴か…たしかに、黴は適度な温度がないとはえない」
「でも、たまたま…」
その窓の外を、燕が横切っていく。窓際に置いてあったジャガイモがたちまち芽を出した。
「わッ」
春のかおりがどういう香りなのか、具体的に言うならばひなたの土の匂いだろう。それもどこかあまやかな香りを含んだもの。
そのかおりがどこからともなく食堂に満ちていく。


「しかしわしももういい歳じゃ。毎年こうして走るのはきつくなってのう。来年は誰ぞへ役目を譲ろうと思っておるのじゃ」
老婆はのんびりとそう言った。飛燕が運んできた茶を美味そうにすする。

「たのむぞ、ユウイチ」
「………俺かよ!!」





ともあれ日本列島春満開。春爛漫。春うらら。
人は浮かれ、やれカラオケだやれ花見だ潮干狩りだと明るい顔で昨年と比べて大分遅い春の訪れをよろこんだ。
その春の訪れの影に、一人の男の尽力があったことを誰も知らない。
「お疲れさん、富樫」
ぼろぼろに疲れきった富樫はベッドにうつ伏せになった。桃の心づくしか、布団が二枚に重ねられており、富樫の身体をやわらかく受け止める。
枕に顔を埋めた富樫は疲労のためにたちまち意識を朦朧とさせ始める。桃はそんな富樫を短い言葉だったが心からねぎらった。
「オウ…まあ、な…」
「そうだ湿布貼ってやろう。脚出すぜ」
布団を着せ掛けようとして、桃は思いついたように富樫のボンタンの裾を捲り上げてぱんぱんに膨れ上がったふくらはぎをさする。そこへハッカのにおいのする 湿布をぺたり、ぺたりと貼ると富樫は枕にくぐもったうめき声をもらした。いかにも気持ちが良さそうな声に、桃の太くて格好のよい眉が下がる。

「一週間でやりきるとは思わなかったぜ。もちろん、バァさんのおかげもあるだろうけど」
あの老婆春一番というだけあって、背負った富樫を風のように速く走らせることができた。だが日本をくまなくまわるのはとても忍耐と体力のいることだった。 が、富樫は持ち前の、というより唯一持ち合わせた根性を全て搾り出してやりとげたのである。
富樫だからできた、というより、富樫にしかできなかっただろう。

桃はそんな富樫が好きだった。馬鹿で、どうしようもなく向こう見ずで、底の浅い、根性一筋浪花節なこの男が好きだ。

「なあ富樫、久しぶりに会った気がするな」
「たったの一週間じゃねぇか」
うつぶせになった富樫の背中へ、桃はそっと自分の身を重ねた。重みに富樫が呻く。
「おい、コラ、重てぇじゃねぇか」
土の匂い、かわいた土の匂い、どこかで引っ掛けたのかれんげの花粉が学帽についている。

「……富樫、簡単に言えば俺も春なのさ」

色男だって、春なのだ。
モクジ
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