あけました

誰もいなくなった夢を見た。
もう何十年も経っているのに、生生しい悲しみは血を滲ませている。



富樫は男塾塾長江田島平八の筆頭秘書になった。なって、既に十余年。
という事は日本一大変な男であるという肩書きを背負うという事。
ふるき一年、富樫はまことによく走った。駆けた。駆け抜けた。
ほっかむりに江田島平八の邸宅全てのほこりをはたきおとし、汚れを拭き清め、洗い流し、
けがれを全て持ち込まない新年の朝は、鶴が庭に降りてきそうなほど清らかだった。

雪が大晦日の、ふるき一年の最後に降り注いで、仕上げに全てを埋もれさせていく。
取り除き損ねた穢れだけではない、忘れてきたもの、重たいもの、渦巻くもの。全てを包み隠して白に染めた。
まっしろに目を焼く白さが全てをことごとくそそいで、初日の出と共に暁を迎える。

富樫は大晦日の夜から明け方にかけてもまだ駆けていた。一日に山のように押し寄せる参拝客(と言っていい)達へ振舞う酒や食事の手配があった。
新年明けましておめでとうございますと、徹夜明けのまるで雪がれていない濁り眼で挨拶を済ませ、後はまた駆けるのみ。
一日はそうして瞬く間に終わった。
桃や、虎丸、そして邪鬼など富樫にとって懐かしむべき男達も客の中にはいたのだが、
「あけましておめでとう」
「今年もよろしく」
上っ面の、とにかく合言葉のようにこれだけ繰り返せばよかろうと軽軽しいやりとりに終わらせてしまった。
そうして飛ぶように、なにがなにやらわからぬまに酒を注ぎ、おめでとうおめでとう、今年こそとがなって初日が終わってしまった。

宴会をなんとかかんとか、何かそれらしい理由をつけて、転がるビール瓶を片っ端から拾って、皿を調理場へ運び、残っていた刺身を集めて茶碗に醤油とゴマと 細切りの紫蘇をまぶしておいてから皿を片っ端から洗車機のように洗い、
「はあ」
忘れていたようにため息をついて、そして初めて今自分が止まっている事を自覚する。
水を節約しつつ大量の皿を洗い終え、伏せる。いつもならばふきんで拭いてしまうのだったが、どうにも眠気と疲労がたまりにたまっていた。

流し始めた頃にかけたやかんはちんちんになっており、熱い茶を入れて、醤油びたしの鯖の刺身を残り飯にのせてかけまわす。
調理場の隅で鯖茶漬けをかきこみながら、深夜も半分を過ぎ去った窓の外をぼんやりと富樫は眺めた。
一年が始まったという自覚がまるでないまま、せわしなくまた走り出す日日に身を投じるのだろうと。
変わらない一年だと、富樫は思っていた。

茶碗を洗って伏せ、かろうじて歯を磨き、布団へ倒れこんだ後は覚えていない。



やわらかいのは、ちょうど風呂桶に上等の毛布を洗剤と湯とを入れて、踏み洗いしているような。
生暖かい、脚に絡み付いてくる足元は薄桃色。
血潮の色を皮膚に透かした色をしている。
富樫はその中に脚を飲み込まれながら立ち尽くしていた。
息づくように足元は富樫の脚を食む。
足元の動き以外、何もなく真っ白な世界だった。
心細さに、富樫は声を張り上げた。
「おおい」
反響すらしない。
反響すれば空しさだけは富樫の側にとどまってくれる。
が、声も行ったきり。
「おおい、桃」
やはり富樫が一番に呼んだのは桃だった。
だが、声はやはり返ってこない。

思いつくままに富樫は声を張り上げて誰かを呼んだ。
しかしどの名前も富樫の口から飛び出ては戻ってこない。
そのうち名前も尽きに尽きて、胃の中が空っぽになってしまう。

何も富樫の側にはとどまらず、ただ足元から食まれていくだけ。
誰も富樫の側には居ない。
富樫はうずくまった。
うずくまると生暖かいものは富樫の腰のあたりまで浸り、ぬめぬめと食んでいく。
そのうち耳をふさぐだろう。
そのうち口をふさぐだろう。
そのうち目をふさぐだろう。
穴という穴から染み入って、何もかも失くすのを忘れるだろう。
富樫は卵になった。
あたたかい。
安らぎすらある。


「わしが男塾塾長、江田島平八である―――ッ!!!」


世界が卵だとするなら、その卵を粉粉へ砕く声を富樫は知っている。
その声を聞くだけで胸は熱くたぎり、身を浸す生温さなどとは比べようも無い熱さに、いてもたってもいられなくなる。
富樫は立ち上がった。
絡みつくようなあの生暖かさは、冬の布団のあたたかさだ。
出てしまえばくだらない、つまらないもの。
自分の殻など、その程度のもの。出るまでいくらも考える。出たらチラともかんがみない。




「何時まで寝ておる」
「……押忍」
大きな顎、太い首、ぎょろりとしたまなこ。
富樫を見下ろした塾長は笑っていた。
「なんじゃ、泣きべそなんぞかきおって」
「……押忍、」
ぐずっ、富樫は鼻をすすった。
「ワシよりも遅くまで寝ておる奴があるか」
「押忍」
「のう、お前もいい歳じゃ。たまには立ち止まれ、そして周りを見よ」

富樫は起き上がった。
何時の間にかしっかりと布団にいたまではよかったが、いたのが塾長の布団なのに青ざめる。
「!!?」
「フッフフ、覚えておらんようじゃな」
寝巻きの袖口から出した太い腕を組み、塾長は笑う。
「お、俺ァ…」
「女女しい事を口走りながら布団へ潜り込んできおったぞ」
「!!」



「さて、お前にもやらんとな」
袂へ手を入れ、つかみ出したるは大きな、どうやって納まっていたかわからないボウリング玉が、ぬっ。

「オ、俺ァもう…い、」

「新年初!お年玉、受けとれィ!!」



鶴が羽ばたいていく。
モクジ
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