ワタヌキ
携帯電話のいいところは、ベッドの中にでも持ち込めると
ころだ。
寝室には余計な都会の明かりから隔絶されている。ただでさえ少ないのだからと、安らかな眠りのためにさまたげになる刺激物は排除してあった。
そんな暗がりに携帯電話のディスプレイは青白く、暗闇の中でははげしいぐらいに光る。
飛燕はほっそりとした指で携帯電話を操作し、目当ての番号を呼び出す。
十二時、十秒前。
コール、
コール、
コール、
『………んあ?』
寝ぼけた様子の声が、端末から転がってきた。多忙極まる相手も珍しく飛燕と同じように、日付の過ぎ越しを待たずして眠っていたらしい。
飛燕と違うのは、彼が眠るのは低反発のマットがすばらしい寝心地のベッドではなく、昔ながらの綿がギュッと詰まった重たく硬い布団だということ。
電話を通すといつも聞いているのとはまた違った、風邪をひいているように飛燕には聞こえる。
(もしかしたら、本当にひいているのかも。馬鹿だけれど)
馬鹿、
そう、飛燕が電話した相手は馬鹿だった。底抜けに抜けて抜けて突き抜けて、頭をひとつもふたつも抜けた馬鹿だった。
その馬鹿はたとえば誰かを助けるために雪山に裸で飛び込んでも無事なくせに、夏腹出して寝ていて風邪をひくような。
「富樫、起きているか」
『う……飛燕かよ、おめえが今、起こしたんじゃねえか…』
声がやけにくぐもっている。布団の中で本当に会話しているらしかった。
ここんとこ二日ばっかし寝てねえんだよ、富樫は恨めしそうに言って、飛燕の用件を待つ。
「そうか、体はどうだ」
『かわりねぇよ』
「そうか」
くぁ、柴犬のような欠伸が飛燕の耳を掠める。
(この私と話していて、欠伸交じりとはいい度胸ですね)
安眠妨害もはなはだしいが、飛燕はフッフフと不穏に笑った。
「それでね、富樫」
『あー…?』
いきなり声が遠くなった。どうやら携帯電話を側に置いてしまったらしい。
飛燕はさらに含んだ笑いを紫色に深めると、
「お前なんか、世界で一番大嫌いだ。お前なんかさっさと塩辛いものでも食べて煙草吸って酒飲んで身体をボロボロにして、それから女にも恵まれないで一人寂
しく死ぬがいい、いいか、富樫、お前を私は大嫌いだ」
飛燕はぞくぞくした。富樫に言えない、言った事もこれから言う気もさらさらない言葉をこんなにも並べ立てた。その背徳感というか、なにかぞくぞくと背中が
震える。富樫は馬鹿だから、傷ついたかもしれない。
一度傷ついて慌てふためく富樫を見たかった。
うそだよ、そう囁いて怒る富樫を見たかった。
『あー…俺ァ、飛燕、おめぇが好きじゃ……そんじゃ、おやすみ』
ブツン、電話はあっけなく切れた。飛燕は反射的にリダイヤルをしたけれど、
お客様のおかけになった電話番号は、ただいま電波の届かない…
無機質な女のアナウンスが冷たく返すだけ。
「富樫!?………」
飛燕は眠れない夜を過ごす事になる。
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